2009-05-31

〔俳誌を読む〕『俳句界』2009年6月号・「天使としての空間-田中裕明的媒介性について」(関悦史)を読む

〔俳誌を読む〕
『俳句界』2009年6月号

「天使としての空間-田中裕明的媒介性について」(関悦史)を読む


上田信治


●第11回俳句界評論賞 「天使としての空間-田中裕明的媒介性について」関悦史 p.111

今号の『俳句界』、特集が「俳句大会入選の"コツ"教えます」だったりして、いつも以上にアレなんですが、これ一本載っていることによって、救われています。

本誌や「豈 weekly」でもおなじみの関悦史さんが、田中裕明についての論考で「俳句界評論賞」を受賞されました。

選考委員の、岸本尚毅さんが「支離滅裂な副題の通り、天使性、稚児性などというワガママな概念設定から裕明の句へ急接近する。極めて独断的な筆致を通して、裕明の本質に迫っていることに驚く」と評するとおり、読んできわめて面白く、示唆に富む文章です。

評者(上田)には、かねがね裕明について、まだ誰も言っていない大事なことがある、という予感があったのですが、そのことを正に「言ってもらった!」という思い。

短い文章なので、全部紹介してしまわないように注意しながら、ざっと論旨を追ってみましょう。

まず作者は、裕明の第一句集『三信』巻頭の〈紫雲英草まるく敷きつめ子が二人〉の句を挙げ、そこに、この俳人の特徴のかなりの部分が開示されている、と書きます。

それは、作者によれば「複数のものたちが天使的としか呼びようのない非物質的・超物質的関係を軽やかにとりむすびあって対を成し、それが日常とは別の時空をあっさりと句のなかに実現させてしまう」ような、そういう特質です。

作者は「天使的としか呼びようのない」それをまた、「稚児性」「完全性」といい、「錯乱に至るほどの媒介性」と言い換えます。

そして、中沢新一、鈴木晶(の文章の引用から、バルザック、ブリューソフ、ダンテとベアトリーチェ、ルイス・キャロルetc.)武田泰淳・百合子夫妻、両性具有性、神話的思考、エクスタシー体験などの、作家や概念の名前を矢継ぎ早に(錯乱に至るほどの速度で)あげ、「天使性」または「天使性を帯びた複数」という概念のイメージを、読者に与えようとする。

そして「天使性を帯びた複数」が、田中裕明の句には、頻繁に姿を見せることを、多くの句を挙げて指摘します。

それは例えば〈大学も葵祭のきのふけふ〉の、「きのふ」と「けふ」が、「この二日」といった措辞には置き換えられない「ふくらみ」を有していることや、〈似て非なるもの噴煙とよなぐもり〉の噴煙と黄砂が、不定形さを保ったまま、それぞれの存在感を際だたせていることに現れている、と。

目のなかに芒原あり森賀まり〉を、作者は「媒介性の極み、乱反射のような句」であると書きます。

(自己増殖していくタームにくらくらしてしまいますが、これ以上、新しい概念は出てきません。「天使性」「媒介性」の二つです。そして、この二つは同じものです)

「森賀まり」が「芒原」を映し一体となり、その人は、夫である田中裕明とも一対をなす。しかも「君」とも「妻」とも呼ばず、固有名詞を用いた。

そのことによって、そこに書かれる関係は固着せず、自閉せず、その外にある広大さの中で「いささかの不安定さをも持つ微粒子的な流動をはらんだ一対の立ち姿が、奇跡的な涼やかさのなかにあらわれる」のだとされる。

(すばらしい読みだと思う。つまり、この句は「生の一回性」を、書き尽くしているってことじゃないですか)。

作者の言う「媒介性」は、なにかを「媒介する性質」ではなく、「二つ」のものの間に、「「媒介」という言葉でイメージされるような関係があらわれること」のようです。

それは、二つのものの「強調」ではなく、二つが「隠喩」でむすばれるのでもなく、二つの間に「空間」を生むのでもない。「複数のものの結合が天使的な相においてあらわれること、言い換えれば不可視の天使を句作においてとらえること」であると。

(もう一個自分が、勝手に言い換えてしまえば、複数のものの「間に天使が出てしまうような」置かれかた、ってことでしょうか。ひょっとしたら、それが、標題に言う「天使としての空間」ということかもしれない)。

ここまで来れば、読み筋は明らかで、話は裕明の取り合わせのふしぎさに至り、そして、裕明が「青」の新人賞を得たときの、ものすごくすばらしい受賞のことばが紹介される。

もったいないけど、写しましょう。

たとえば二月堂のそばの茶店で『失われし時を求めて』を読みつづけた人にそして秋の日について思いをめぐらせたあとに、他者と自己の関係においてのみ眺めている世界が変貌する時間がやってくる。相対化の原理はそこでも働いているので、俳句が生まれる時の自分は新鮮な果物のように感じられることがあり、それが魅力の一つかも知れない。

「ゆう」2005年田中裕明主宰追悼号所収の植松章治「草いきれさめず」より孫引き(の孫引き※上田注)

そして、そのあと作者が「天使的」なモチーフとしてあげる「小鳥」や「子供」、あるいは「媒介」するものとしての「手紙」「本歌取り」などが、とりあげられ、本論は、田中裕明の句群が今後も「大きな可能性の塊」として「当分の間その存在感が薄れることはないだろう」と結ばれます。

そうなんですよ。

田中裕明の、あの取り合わせは、語が指すもの(季語とか)でもなければ、言葉のあやでもないものを目ざして、言葉が置かれて、それで成立していたと思うんです。

はじめの句に戻れば、それは「紫雲英草」のために書かれているのでもないし、「子が二人」が、どうだというのでもない。強いて言えばその「まるく敷きつめ」られた場所に、あらわれる、第三項的なものが目ざされている。

それが、だから、たとえば「天使」。たとえば「媒介性」(お互いがお互いを媒介して何かをする、その関係のぬらぬらしたうごき、そのもの)。そういうものを実現するために、それは書かれている。

まあ、芸術っていうのは、みんなそうです。絵で言うと分かりやすいですが、人が見るのは、絵の具でも、林檎でもない。人は、そこに実現されている「絵」を見る=視覚的体験を得るわけですし、画家も、正におなじ視覚的体験を、得つつ描くわけです。

俳句にも、「俳句的体験」とでも言うべきものがあって、すべての俳句のキモはそれだと、自分は思うんですが、田中裕明という作家は、まったく分かりやすく、それだけ(!)を目ざしていたんじゃないかなあ、と。

関さん、ありがとうございます。すばらしい文章でした。裕明について、こういうのが読みたかったんですよ。

受賞、おめでとうございます。

2 コメント:

関悦史 さんのコメント...

上田信治さま
ありがとうございます。
こんな丁寧でノリの良い紹介記事を書いていただけるとは思ってもいませんでした。
こういう作家論的なものは、書いているときは自分でもそれなりに心弾んだり、楽しかったりするのではありますが、一方「こんな話、人に通じるかね」とも毎回思っているもので、その意味でも今回の論評はまことにありがたいです。

上田信治 さんのコメント...

関悦史さま

遅レスで恐縮です。上田です。感想は言い尽くしましたが、ほんと面白い論考でした。選考委員の岸本さん、宮坂さんが面食らいつつ説得されているかんじが愉快でしたね。と、今週は岸本さんの10句が載っているというちょっとした奇縁が。

関さん、またぜひ、(週俳にも)面白いの書いて下さい。