【俳句関連書を読む】
岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』を読む
猫髭
2009年9月深夜叢書刊
原石鼎の名前と俳句は、どの「歳時記」や「季寄せ」にも必ず載っているから、知らない俳人はいないと思うが、俳句に親しんで二三年の初山踏みでも知っている石鼎句というと、次の二句だろうか。
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
秋風や模様のちがふ皿二つ
結社に所属したり、同人誌に所属したりして俳句に入れ上げていれば、石鼎が「鹿火屋」主宰であることを知る者は、
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守
が結社誌の由来を明かす一句として知っているだろう。
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月
風呂の戸にせまりて谷の朧かな
山の色釣り上げし鮎に動くかな
蔓踏んで一山の露動きけり
などを加えると、これらは石鼎句の中でも人口に膾炙された句の上位になるだろう。現に、平成十六年(2004)五月号の「俳句」における特集「大正俳句の魅力」で俳人たちに選ばれた石鼎の句の上位三句もこの中におさまる。
「鹿火屋」系の俳人であれば、たちどころにそれ以上の句が口の端にのぼるのは当然だが、考えてみれば、わたくしのような「鹿火屋」に縁のない雑食俳句愛好者でも、これらの句を諳んじられるというのは、それだけ石鼎句は印象鮮明で舌頭千転できる調べに満ちているからだろう。
しかし、飯田龍太によって「虚子門葉中、もって生れた天賦の才に恵まれたひと、といえば、まず第一に原石鼎に指を屈してもいい」とまで評価されたにも関わらず、「忘れられた俳人」の仲間入りをしているのは、石鼎の半生が神経障害の療養に明け暮れ、ために初期の深吉野の秀句のみが語られることが多いと、アンソロジーなどの解説を見て、そのまま信じている読者は多いだろう。わたくしもそうだった。
ところが、石鼎生誕百年を記念して出版された『原石鼎全句集』(沖積舎)を読んで愕然とした。
海上雅臣の解説「他句の連想を拒絶する俳句」と「年譜」に、石鼎の神経病の原因は石鼎の名声を苦々しく思っていた虚子の露骨な圧迫に拠るものだという由が記してあったからだ。天賦の才に恵まれた石鼎を俳壇から抹殺したのは虚子であるという怨念のようなものは、海上雅臣のパッションに引きずられるように書かれた小島信夫の石鼎評伝『原石鼎-二百二十二年めの風雅』(河出書房新社)にも流れていて、デーモンのような虚子が見えて来る。
だが、果たしてそうだったのだろうか。というのは、虚子と石鼎の出会いは、俳壇史上でも例を見ない幸運な出会いで、虚子選の膨大な「ホトトギス雑詠選集」を古書で読み漁ると、石鼎句は、常に虚子選の上位に入り続けていたからだ。火のないところに煙は立たずとはいえ、俄には信じられなかったが、わたくしは「鹿火屋」派でも「ホトトギス」派でもないため、当事者で無い分、手出しの出来ない暗雲に包まれたような心持だった。
そういう時、「ににん」に連載されていた岩淵喜代子氏の『評伝 頂上の石鼎』(連載時のタイトルは「花影婆娑と」)に出会った。
これは七年間にわたる連載で、手元の『原石鼎全句集』をくくりながら読んでいると、句の順番や表記にも異同があり、変だなと思いながら比較すると、岩淵氏は、初出の「鹿火屋」や「ホトトギス」に当たりながら書いているのだった。
石鼎が「ホトトギス」に「頂上や」の句で初登場したのは大正元年(1912)十二月号であり、「大正二年の俳句界は二人の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎」と虚子が激賞したことで、一躍石鼎は全国に名前が知れ渡るのだが、自選句集や全句集だけではなく、九十年前の資料を探して初出に当たりながら書くというのは、上野の国会図書館や新大久保の俳句文学館でも当時の資料は欠けているので、その労苦たるや筆舌に尽くしがたいものがあるので驚いた。
この評伝が、読み始めるや事実考証の確かさを感じさせるのは、そういう地道な検証の上に成り立っているからで、海上雅臣の紙面が燃えるような情熱とは異なる冷静に入れ上げる評伝が現われたことを喜んだ。
岩淵氏の評伝の特長は、経糸として、深吉野以前の石鼎句が生まれる背景から、深吉野以後の晩年に至るまで、丹念にその住んだ場所を辿って事実を追確認し、緯糸として、その句が詠まれた現場に立った句の鑑賞を織り込んでいく手法で、加えて氏が長年かけて体得した俳句への思いが経糸と緯糸を織り込む力加減に加わって、やがてタペストリーのように、鮮やかに純粋俳人としての石鼎が現われることである。
いわば評伝の形を取った俳人論であり、俳論であり、通常の評伝の寄り添うような浪花節から距離を置いた硬質な美しさすら感じるのは、この実証と鑑賞と俳眼のバランスが美しい距離を持っているためだ。一例を挙げよう。
冒頭、いきなり、
七草に入りたきさまの野菊かな
と、明治三十六年(1903)の山陰新聞紙上で十七歳の石鼎の初めて活字になった一句を記すところから、評伝は始まる。
連載時は、氏がなぜ石鼎伝に取り組んだかの経緯が書いてあった(これは「あとがき」にまわされている)。それをすっぱり切って、単刀直入に石鼎の処女句から入る。そして、次の行では「忘れられた俳人」石鼎の核心の謎が毅然として提示される。
石鼎についてはいつも吉野から語られる。そして誰もが吉野で尽きるのである。まるで、その後の石鼎が存在しなかったかのごとく。加藤郁乎も、深吉野以後の石鼎の句に敬意を払わぬ俳壇に非礼誤認も甚だしいと異議を唱えていたが、ここに初めて、深吉野以前から深吉野以後までを語れる語り部が誕生したと言える。
頂上や殊に野菊の吹かれ居り 大正元年十月三十日
もまた、「ホトトギス」が初出ではなく、その二ヶ月前の奈良朝報に掲載された六句のうちの一句だったことを明らかにし、「この野菊と、十七歳の時の野菊の間こそが、石鼎の俳句の土壌を養う月日だった」と氏が説くくだりは美しい。
深吉野の小高い位置に身を置いたとき、野菊に視線が導かれたのは偶然ではないのである。小さな菊はふるさとであり、ふるさとの石鼎自身なのである。そして、十七歳の少年が知っている数少ない花の中で、もっとも身近に親しんだ野菊なのである。「全句集」の解説で、「頂上や」の句を、芭蕉の「古池や」の句に替わる写生だと言い切る海上雅臣の入れ上げ方も半端ではないが、岩淵氏の鑑賞は、石鼎句の現場を辿り、同じ場所に立って、まさしく石鼎の目で句を読んだような自然な説得力がある。氏は、その前に、【俳句は「ただそれだけのこと」でいいのである。「ただそれだけのこと」であるのに、読むたびに、限りなく周波を送ってくれる作品であることが俳句の魅力である。いくら語っても、それはあくまで作品世界を解説するに過ぎないのだから】と述べているが、この透徹した鑑賞の素晴らしさは解説とか評伝の域を越えている。
石鼎は「ありのまま、口をついて出るままに詠んだだけなのです」と自句について問われるたびに応えていたが、岩淵氏は、そのことを引いた後で、
言霊の力としか言いようがない。詩とは本来そうした生まれ方をするものである。十七字しかない俳句は尚更である。方法論や志向が先にあるのではない。まさに「口をついて出るままに」としか言えなかったのである。と言い切る。
石鼎の唯一の自選句集『花影』は、その集積であるから魅力的なのである。
『花影』は、作品は言うに及ばず、紙の手触りの滑らかさ、装画の石鼎の絵も美しい装本の小ぶりな句集だが、豪華さでは美術書老舗の求龍堂が出した限定版『定本石鼎句集』には及ばなくとも、この『花影』は、何とも手になじむ美しさがあって、何とはなくこの句集が一番魅力的だと愛着を感じていたが、氏の言葉を読んで、なぜなのかを納得した。この句集には丸ごとの石鼎がどかんと居るのだ。
300ページ近い大著だが、一気に読めるのは、天性のままに生きる石鼎の憎めない純真さと、コウ子夫人の生涯処女説の真偽もかくやという献身ぶり、虚子の権威と取り巻きの右顧左眄の悲喜劇がエピソードのように散りばめられて、読者を引っ張るからでもある。エンターテインメントとしても一級品ということだ。
石鼎ファンだけでなく、多くの俳句愛好者に読んでいただきたいと切に願う一書である。
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