2010-01-24

〔新撰21の一句〕北大路 翼の一句 ……すずき みのる

〔新撰21の一句〕北大路 翼の一句
来し方行方 ……すずき みのる


冴返る旧居住者の鏡かな  北大路 翼

北大路翼の1句がこれか、という事で、異論をもたれる方もいるかもしれないな、と思う。確かに、100句の中にはより北大路翼らしい戦略性に富ん だ大胆で卑猥でちょっと華麗な句が、山ほど収載されてあるので、それらについては、是非現物の『新撰21』を手にとっていただき、当該ページを開いていた だければ、と思う。

100句に付された松本てふこ氏の「北大路翼小論」の末尾に、「独自の生活実感を詠み続けるであろう彼の今後を占う上で、この百句は必ずや重要な ファクターとなるであろう」との一節があるが、おそらくその通りであろうと思いつつ、もちろんその「今後」、特に近未来をどのようなものと予想するかは、 北大路氏自身の志向と性向と戦略上の問題であり、同氏に興味・関心を抱く者にとっての推測と想像と妄想の世界の問題かもしれない。

とりあえず、今目の前にある100句の中で、なぜ「冴返る」の1句を取り立てて引き合いに出したのであろうか。結論から言ってしまうと、この1句 の中に北大路氏の俳人としての様々な要素が比較的素直に表現されてあるように思われるからである。そして、その要素は今後氏の作品の表面的な部分からは、 どんどん隠されていくかもしれないものと、勝手に妄想したからでもある。

ここでいう要素というものを、1句の中から抽出してみると。まず、「冴返る」という詠い出しと、それに続く一連の配列から、まずこの人は有季定型 の句を作る人なのか、と思う。しかも、「冴返る」といういわゆる縦題の季語(和歌伝来の季語)を使うのか、とも思う。さらに、代表的な切れ字のひとつ「か な」の使用ということもある。

句の焦点は「鏡」という物に収束され、そこには「旧居住者の」との、やや固い散文的な言葉遣いによる説明を付す。この形容により、季語「冴返る」 は自然であるが、句の内容は人事が主眼ということになるようだ。ただ、「冴返る」のぴんと張った空気感は、旧居の雰囲気ならびに鏡の鏡面の印象へと生かさ れていくようだ。人事の背後に息づく自然というものがずいぶんバランス良く描かれているように思われる。

「鏡」に焦点化された点について、その「鏡」はかつてここで暮らし、今はここにいない者の日常を映し出していたであろう、その「鏡」という風に私 などは解釈する。その「鏡」は、すでにここにはいないものの所有物であったということ以外に、何ら特徴のないごく普通の「鏡」であるようにも思われる。そ して、あるいは若干曇りを帯びたその「鏡」は、かつて映し出された様々な生活の断片を、深い湖がそうであるように、その鏡面の底深くに沈めているのかもし れない。いわば、「鏡」は「旧居住者」の過去の日常生活のよすがとして、今ここに存在するのかもしれない。それがここにあることによって、それを見たもの がそこに映し出されていたであろう「居住者」の生活の様態を様々に想像するための きっかけの装置として。「鏡」それ自体は、現実の一事物にすぎないけれど、その持つ意味合いは人の生き様を空想裡に再現するものとして、ここで 詠われてはいまいか。まだるこしいものの言い方をしているけれども、つまるところ「旧居住者」の生活は、すでに「鏡」を通過して間接的に想像され、創造さ れるほかないものということだ。一面描写のようでありつつも、重構造を内蔵する一句とでも言えようか。

なお、色々と評判になりそうな「女 LOVERS」について、一言。個人的には、「医学生京香」と詞書のついた一句を、「物」として詠った点が、 詞書とも響きあって(若干検死報告的でもあり)面白いと思ったけれど、他の句については、性愛文学(こんな言葉があるのか、とも思うが)の「もじり」的な 印象が強くて、表現・内容ともにどうかな、と思った。松本てふこ氏の評するように、「生々しい欲望をとじ込めた単純な構図」化による、俳句化された性愛文 学として、「カリカチュア」の達人の手になる、それはそれで北大路翼的な句群なのか、とは思うけれども。





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