2010-01-24

〔新撰21の一句〕相子智恵の一句 山口珠央

〔新撰21の一句〕相子智恵の一句
祝祭 殺意なき刃【やいば】(持つと光ります) ……山口珠央



松下村塾八畳一間草青む 相子智恵

日本人のなかにはいまだに縄文人と弥生人の別があって、これまで相子と顔を合わせる度に「この人は縄文系だなあ」と思わされてきた。ここで「系」というのは、コロラリーに示される厳密なものではなくていわゆるセカイ系等というときの「系」くらいに捉えて頂ければ有難い。

なんかまたワケ分からんフリから入ってしまったのには、少しばかり理由がある。筆者は朝日新聞と日経新聞を購読しているのだが、前者はどうしたことか不着の場合が多々ある。連絡するのも面倒でポストに差されたままの上階のご家族の分を盗ってきたことが一度だけある。この場を借りてお詫びします、西川ファミリー。今年1月7日の夕刊は何故か二部届いた。珍しいこともあるものだ、と思いながら紙面を開く。なんとなく真ん中辺りからぼそっと開く。これまで考古学会の定説であった「縄文時代にも人は殺し合っていた」との見解における最大の根拠が覆った、との記事が掲載されている。日本最古の殺人の例証として保存されていた人骨が、2004年からの再調査の結果…といっても詳細な説明は本稿の主旨ではないのでもうやめます。殺人ではなく儀礼による刺し傷であった、との結論が報告されました。

個人的には新年にして既に「今年の重大ニューストップ10」に入ること間違いなしの記事に興奮していたわけですが、やはり居た。その同じ頁に。

誰が、って相子智恵が。

筆者が残念なヒトなので前置きが長いだけで、相子俳句について書き始めている以上、同じ頁で近況インタビューが掲載されている赤瀬川原平のほうにフルのは控えます(でもトマソンは我が日々の糧なり)。普段は遅配、誤配上等の配達係さんが7日に限って二部も届けてくれた。その紙面に相子と縄文人の遺骨が載っている。これはもう運命である。何が運命なのか、についての詳細報告は以下の拙文にお付き合い願えれば幸いである。

一時期、プチ吟行というのが結社内で大流行した。吟行のお気軽ヴァージョンである。案内もルートも割りと簡便かつ適当。よって幹事の性格が出る。几帳面な方が幹事だとかなり本格的になるが、場合によっては行き当たりばったり。而して、その記念すべき第一回目のプチ吟行で詠まれたのが掲出句である。

(註・「流行」はせをのいうそれではなく、デペッシュ・モードのことです)

自分が着ていた服は覚えているのに(知り合ったばかりの人と会うときは服装に悩みます)集合時間や天気はまったく覚えていない。「猫寺」として有名な豪徳寺を目的地として、句会開始の18時に北沢タウンホール到着予定のコースだった。目玉は「路面電車に乗ってみよう」だったような気がする。いくつかの駅で下りて、週末の商店街をそぞろ歩き、まだ肌寒い季節だったので途中でお茶を頂いてまた電車に乗る。七名か八名くらいの年格好さまざまな不思議な集団である。そのときに立ち寄ったのが松陰神社だった。だから、掲出句は山口県の松下村塾のそれではなく、復元模型を詠んだもの。本場より一回り小さかったように思う。例えていうなら多摩地区に設置された「ハローキティのお家」みたいなもの。いや、ハローキティはあれが本物ということでいいのか。

相子は句柄も大きいが感情表現も大きい。「豊か」というより「大きい」のである。筆者のようなひねくれ者は無表情なまま黙っているような場面でも、ひとつひとつ反応する。出会ったばかりの頃は気を遣ってのリアクションかと思っていた。勿論、本人に確認する術もなかったわけだが、少人数での初の「プチ吟行」そして、その直後に句会に出された俳句を目にして腑に落ちた。驚き顔やら喜び顔の相子智恵は本当に驚いたり喜んだりしている。

都下の松陰神社。

俳句を作りに行った身としては「なんかつまんないところに来ちゃったなあ」と内心思ってしまう。神社境内の墓所が分譲中だったので、吉田松陰ファンの筆者はその問い合わせ先の電話番号を携帯にメモしていたくらいである。そうゆうリアクションしか取れないような場所で、相子は実に活き活きとしていた。はっきり言って謎である。当時20代半ば、肌もつやつや健康そのもの(今もそうだと思います、最近お会いしていませんが)の女性がこうゆう冴えない面子でこうゆう冴えない場所に来て何が楽しいのか。その答えがこれである。

掲出句は写生句ではない。むしろ幻想の一句である。ヒトが自分の入る墓のことを思案しているときに(これが一般的なケースとは強弁しないが)、相子にはこの一句から連想され得るすべての景色、人、物、時間が見えていた。「歴史上の偉人」ではなく夭折の学者を、墓ではなく彼のもとに集った若者たちを、足下の踏み固められた地面ではなくそこから芽吹くであろう緑を。相子が見ていたのはそれだった。言うなれば、アンチ「メメント・モリ」。死を思うまえに生きてみるか。そういうことなのだな、と句会中に思ったのを覚えている。掲出句は、おそらく、俳句形式の知識のある人間を捕まえて「松陰神社で作ってごらん」と12時間くらい拘束したら生まれる句かもしれない。しかしながら、この俳句の詠まれた過程は、相子における作句の精神を凝縮しているのではないか。

当然にも、あるいは幸運にも、この一句は結社内でも高い評価を得た。だからというわけでもないけれど、その後、ほぼ毎月のようにプチ吟行が開催されるようになって、途中でその事実を知った結社の偉い人(主宰とも言う)が淋しがるのでひと声掛けるようになった、というお茶目な経緯があったようななかったような。ともあれ、この時期を境として結社内でも、吟行の楽しさとたいせつさが共通認識となってきた記憶がある。生まれて間もない結社だったので、理想はあっても試行錯誤の時期だった。結社内の状況としては、年に一度の鍛錬会が企画される以前である。ために。「プチ吟行」は相子の所属する結社の句風が現在に至るうえで、会員の多くに重要な役割を果たしたようだ。

相子の作を読むと、いつも「縄文人の魂」という言葉が浮かんでくる。これは特に出典があるわけではない。本稿冒頭の苦しい前置きはこれを言いたかったがためにあるのです。読者の心を打つ俳句は、それがどんなものであれ、刃のように何かに食い込んでいる。「言葉は武器である」という比喩とは離れた場所において、俳句は刃のようなものだ。自分に刃先が向かってくることもあれば、見事な斬り込みだ、と感心する場合もある。相子俳句はおそらく未だ発展途上にあって、これから比率が変わるかも知れないけれど、これまでのところ、相子の俳句作品は、八割くらいが前者の部類に属する。筆者にとって実に幸運だったのは、生まれて始めて俳句を詠み(読み)ました、という時点(自分がね)において彼女と、そしてその作品とリアルタイムで接することが出来たことだと思う。ものすごく良い勉強になった。いまも勉強になっているし、なにより面白くてしかたがない。

ふと俳句と出会う。その出会い方は千差万別であるが、その方法を選べるとしたら、筆者は同じ出会いを選ぶと思う。相子作品に限らず、句会で出句される作品に惹かれて、現在まで俳句を続けてこられたようなものだ。

相子俳句を簡潔で表せば、臨場感に満ちている。陳腐な表現しか思いつかないのが悔しいが、否応無しに一句の世界に引き摺りこまれる。そこに置かれた五七五の音からなる「言葉」と「読者」だけの時空。しかも眼前に広がるのは紛れもなく「いのち」の屹立する世界である。くだけた表現をしてしまえば、泣けるし笑える。しかも、それが決して悪酔いさせない、上質の醸造酒のような昂揚感をもたらすのだ。何故なのか考えた。「殺意」あるいは「悪意」がないからである、という結論に達した。相子俳句はそれが百句あれば百本の刃であり、そのうち殆どの鋒【きっさき】がこちらに向いている。先述の比率で言えば八十本か。それは読者を傷付けるために向いているのではない。作者の天性の捌きによってこちらに向けて揃えられた、美しい祝祭の、労いの、典礼の鋒である。

21世紀、自らの享年と同じくらいの年齢の女性が掲出の一句を詠んだと知ったら、吉田松陰もいかばかり感動したことか、と思う。LEDではない、発熱する光が相子智恵の俳句にはある。一句が、スターウォーズのライトセーバーみたいな光の刃だ。

光の刃…。いや、これでは本末転倒の評言になろう。その明るさは、炎が、松明が、彼女の世界を照らしているからにほかならない。初めて炎を目にしたときの驚きと眩しさが、そこにある。先に「縄文人の魂」と書かざるを得なかったのは、そのせいかも知れない。縄文人が殺し合ったかどうかの最終判断は、人類学者に委ねればいい。相子が見たもの、感じたもの。すべてはそうした「魂」の持ち主にしか分からないだろう。しかし、俳句というカタチでそれを共有できる機会がある。それこそ、相子作品を「読む」という「体験」である。相子智恵、第55回角川俳句賞受賞者。いまさら書くまでもないが、俳句は興味ないから、という向きの方々にもぜひ一読をお勧めしたい。百句並んだ状態で読んでみてください。タイトルの括弧書の出典はそちらにあります。

以上、すべて敬称略、関係者各位の実名は出しませんでした。第一回のプチ吟行企画者は知る人ぞ知る、例の強烈な大先輩です。気になった方はネット検索してください。キーワードは「澤」。「縄文」では引っ掛かりませんのでご注意ください。





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