2010-01-31

〔新撰21の一句〕田中亜美の一句 浜いぶき

〔新撰21の一句〕田中亜美の一句
「微炭酸」ほどのあかるさ……浜いぶき 


すこし吐きすこし呑む水初蝶来  田中亜美

田中亜美さんの句には、ひとつひとつが、薄いオブラートできれいにつつまれたお菓子であるかのような、不思議な“独立感”がある。あるいは、むき出しのまま置かれているのではなく、個包装されているという印象。勿論、表現が婉曲的だということではない。それが亜美さんの句の“体裁”であるのだと思う。

掲句は、「少し吐き少し呑む水」という章句で、どこか気怠く、ととのわない身体の風景が示される。しかし、作者のその身体のありようは、そこに「初蝶」という全くの他者の到来が描かれることで、すぐに対象化される。これは亜美さんの俳句によくみられる構造であり、掲句の前におかれている「紅梅に」と「梅が香や」の句も同様である。そしてそこが、いわゆる“女性俳句”と揶揄されるものと区別されるべき点ではないかと思う。亜美さんは、自分自身の感覚や情動のなかに埋没し、その“気分”に合うだけの季語を引っ張り出すということがない。むしろその反対に、他者の発見や到来によって、自分自身(の存在や感情)を認識するところがあるように思える。掲句もおそらく、初蝶の目のさめるような春らしい色がちらついてゆく様子を見て、水を吐きまた呑んで調子をととのえようとする肉体が意識されたのだろう。両者(初蝶と作者)は凭れあって重くなるのではなく、天秤が釣りあうような、ある種のかるさを生んでいる。

亜美さんは、自分の輪郭を確認しようとする書き手であると思う。それは、自分らしさなどという曖昧な精神論ではなく、肉体をもつ者としての自分の輪郭、肉体という限界を持つ者としての鋭い自覚を表しているではないだろうか。(冒頭で述べた“オブラート”という印象は、もしかしたら、作者の輪郭への意識のためなのかもしれない。)

その証左として、自我を描くときでさえ、彼女はそれを以下の句のように対象化してみせる。

自我いつかしづかな琥珀霜の夜

「琥珀」という名付けによって作者の自我はしずかに完結し、また「初蝶」という他者によって、作者の世界はふたたびそっとひらかれる。そのような往き来を、彼女は肉体を通して自在に繰り返す。そのかろやかさによって、亜美さんの句は「微炭酸」ほどのあかるさを放っているのだと思う。




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