2010-02-07

新撰21の20人を読む 第2回 さびしげな男と無表情な男

新撰21の20人を読む 第2回

さびしげな男と無表情な男


山口優夢




 

鶏頭花ポテトサラダをつくりけり

洗練された言葉遣い、モノの感触をまざまざと呼び起こさせる描写を得意とする彼は、食べ物の句を作れば、どれもおいしそうに描いてみせる。

花過の海老の素揚にさつとしほ

焼藷や雲一塊が屋根のうへ

冬晴や木の実を包むチョコレート


パンケーキ焼きたればバタ部屋寒き


特に一句目は、今回の百句の冒頭に置かれているだけあって、上五の季語の選択、下五の措辞の巧みさが「海老の素揚」を見事においしそうに描いて見せている。どの句も季語は取り合わせによってつけられているが、「花過」の色彩豊かな季節感、「雲一塊」のボリューム感、「冬晴」の明るさ、「部屋寒き」の寒々しさが、それぞれの食べ物の食感と響き合っている。

ポテトサラダの句は、鶏頭が呼び起こす秋の日の明るさや、鶏頭の、花としての存在感が、ポテトサラダと響いているように感じられる。そしてこの句でもう一つ注目すべきなのが「つくりけり」という措辞の確かさである。「ハンバーグをつくりけり」や「カレーをつくりけり」だったら、「焼きにけり」や「煮込みけり」の方がよりハンバーグやカレーの存在感を伝えているだろうが、「ポテトサラダ」に関しては、「つくりけり」がぴったりのように思える。それは、実際に「つくる」以外に適切な言葉をあてることができないということ以上に、「ポテトサラダ」という不思議に前衛的な語感が、「つくる」という無機質な言い回しを呼び寄せるということもあるのだろうか。

時折「ボブスレー」や「物ノ怪の琵琶」などとんでもないものが出てくる面白さもあるものの、彼の句の素材はほとんどが身ほとりのことに終始する。しかし、そこで使われている措辞は的確に彼の意識・感情・意思を伝えるべく、実にバラエティに富んだものになっている。このバリエーションの一因は、彼がさまざまな助詞・助動詞を使うことにある。助詞・助動詞は、彼の意識の動きかたをそれぞれ反映している。ある場面を客観的に写生するのではなく、彼の意識の動き方を読者にも追体験させるような書き方をすることで、リアリティーを出しているのだ。たとえて言うならば、客観写生が固定カメラによるフラットな画面だとすると、彼の句はハンディカムによって彼の目線そのままに撮影された映像、とでも言えるだろうか。

煙草にほへど火のつくまへや夏夕

邂逅にあをき氷菓を食らひしのみ


運転任せわれは眠らんジャケットに


逆説の助詞「ど」、限定の助詞「のみ」、意志を表す助動詞「む(ん)」がそれぞれ使われている。上記三句どれも、「ど」「のみ」「む」を使わなくても同じ景色を描くことはできる。「火のつくまえの煙草が匂う」「あおき氷菓をくらう」「われは眠る」と言えば済むからだ。しかし、彼はわざわざこれらの助詞・助動詞を入れる。

一句目の「ど」は、火のついたあとの煙草であれば匂いがしてもおかしくないけれど、という固定観念が前提になっている。これは、彼の持っている固定観念であると同時に、我々読者が抱いている固定観念でもある。わざわざそこ(固定観念)を前提にした句を作ることによって、一句における彼の発見に読者が同調しやすいように作られているのだ。また、二句目では「あをき氷菓を食らひけり」でも十分この「邂逅」の様子が見えてくるものの、「のみ」をつけることで、邂逅の様子以上に彼の意識を浮かび上がってくる。すなわち、もっとほかにもいろいろしたかったのに、あおき氷菓を食らっただけだった、という、期待とがっかり感が同時に表される。三句目の「眠らん」は、眠った、ということでも、眠っている、ということでもなく、今まさに眠ろうとしている状況であることを表す。と同時に、とても疲れているのか、それとも運転手とは気易い仲なのか、逆にタクシーか何かに乗っているのか、ぬくぬくとジャケットにくるまれて一人眠ろうとしている彼の身勝手さが描かれている。そして読者にしてみれば、この身勝手さを追体験することは、どこか気持ちよさを伴うのだ。

これらの助詞・助動詞の使い方からも明らかな通り、彼は一句をスナップショット的に一瞬で全貌が見える短い言葉として使っているわけではない。この短さの中にも彼の意識の動きが再現されており、上五から下五にかけて意識が流れてゆく、そういうミクロな時間の流れが押し込まれている。それを端的に表しているのが、たとえば次の句だ。

三人が傾きボブスレー曲がる

サンダル裏すりへりたるや層見ゆる


スワンボート灼けてをるなり目も首も


一句目は、「三人が傾き」という前半部と「ボブスレー曲がる」という後半部との間に実際の時間的な前後関係がある。「三人が傾き」→「ボブスレー曲がる」という切り分け方は、いかにも俳句的な捉え方で、これ自体がめずらしいわけではないが、意識の流れの通りに俳句を書く、という彼の書き方の一つの実践と捉えることができるだろう。

二句目に挙げた句は、意識の流れが一句に収められているという点では典型的な句だろう。サンダル裏がすりへっていることを発見したのちに、「層見ゆる」という発見がついてくるのだ。この句は「や」で切っているにも関わらず一物仕立てになっている句であるが、描いているモノではなく、彼の意識の中心が「や」の前後で「すりへっていること」から「層が見えるということ」に変化しているのであり、そういう意味で切れ字が働いていると読むことができよう。「層見ゆる」の発見に最終的につなげてゆくために、ここで切れ字を使って一拍おく必要があったというわけだ。

三句目はなかなか面白い句。「目も首も」という下五の付け方は一見普通のように見えるが、さにあらず。「スワンボート」が灼けている、という発見は、おそらく彼がスワンの胴体に触るなりなんなりして発見したことであろう。しかし、スワンボートの目や首が「灼けている」かどうかは、触ってみないと分からないはずだが、普通、スワンボートのそんな部分を触ることなどまずしない。つまり、中七までは彼が触覚に基づいて実感した内容であり、下五はそこから彼が類推している内容になっているのだ。これも、一句の中に意識の流れが封じ込められている句と言えるだろう。そして言うまでもないことだが、この句の眼目は「目も首も」の発見であり、これによって、空気全体が逃げ場のないくらい暑くなっている真夏の情景が読者に感得されるのだ。

このように自分の意識をとうとうと読者に向けて語る彼の姿からは、自分を理解してくれる読み手を探しているようなどこかさびしげな様子が伝わってくる。

夏座敷ギターもち出しきて弾けず

この句から受け取るのは、だから、諧謔と言うよりも、もどかしさとあきらめの入り混じった自虐的な心持ちのようである。

冒頭に挙げたポテトサラダの句、彼は一体誰のためにポテトサラダを作っているのだろうか。なぜカレーやハンバーグといった立派におかずとなるものではなくて、副菜に過ぎないポテトサラダを一生懸命作っているのだろうか。それが誰かほかの人のためであれ、自分のためであれ、鶏頭の咲く秋の明るい一日、ポテトサラダ作りに精を出す彼の姿からはやはりどこか人恋しさが感じられる。彼にしてはすっきりとした句の作りが、余計にそのさびしげな様子を醸し出すのだろうか。

作者は藤田哲史(1987-)



霜月の階段ありぬ家の中

この句の「階段」のまがまがしいまでの存在感はどうであろうか。日本家屋の暗い一隅に構えられた階段。決して動くことのないずしりとした階段が家の中に据えられている。居間でテレビを見たり、寝室で過ごしたり、といった、家の中で過ごす時間の大半は階段とは別のところで過ごされる。一階と二階という別々の空間をつなぐためにはぜひとも必要ではあるが、同じ家の中の空間でも居間や寝室のように自分をくつろがせてはくれない場所。

階段、と言えばやはり思い浮かぶのはあの句だろう。

階段のなくて海鼠の日暮かな 橋閒石

この句に浮かび出ているのが奇妙な浮遊感だとすれば、「霜月」の句に描かれているのは「家」という自意識に似た領域に入り込んでいるしらじらしい「階段」の圧迫感であろう。「霜月」という季語の冷たさが階段の暗がりに響き合い、そのような読みを確かなものにしている。

この圧迫的な「階段」に対して、彼は何を思っているのだろうか。おそれ?勇気?絶望?希望?かなしみ?生きがい?彼が何を思っているかの手掛かりは、実はこの句にも書かれていないし、100句を見渡したときどこにも書かれていないように、僕には感じられた。

プールからプテラノドンが見えてゐる

小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり

彼の100句は、縦横に彼のイメージを具現化しながらも、必ず現実世界とのつながりを保っている。実際にある一句が現実的か非現実的か、という話ではない。現実的な事柄も、非現実的な事柄も、それらを受容する彼のまなざしに変わりはない。彼はどんなことが起こっても、それを目の前の現実として受容する。「見えてゐる」という措辞は、あまりに素っ気なく、ここでは「プール」も「プテラノドン」もフラットに登場しているのだと分かる。視界のすみっこを飛ぶプテラノドン、波にもまれて空を見上げる気持ちよさ、そしてプールで水遊びに興じる周囲の嬌声…。「小鳥来て姉と名乗りぬ」という明らかに超現実的な事態を受けて、「飼ひにけり」と一気に日常生活的な反応を示す彼。これらの100句にリアリティーがあると感じられるのは、それらが現実に起こっていることだから、ではなく、それらに対応する彼の態度がどこまでいってもあまりに現実的だからだ。別の言い方をすれば、カタルシスがない。

エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ

裸体なる夫婦がわれを剖くが見え

それぞれの句の面白さもさることながら、僕が興味をそそられるのは、なぜ、たかだか奇妙な言葉が書かれた冷蔵庫のことと、自分を解剖しようとしている異常な夫婦のことが同じテンションで書かれるのか、ということだ。「われを剖きにけり」「われを剖かんとす」「われは剖かるるよ」僕の悪い癖で、ついついいろいろな案を提示してしまうのだが、これらさまざまな書き方があったにも関わらず、彼は「われを剖くが見え」といういたって冷静な態度を取っている。ここには嘆きもおそれもない。

どういう事態に対しても、彼は無表情で向かい合おうとしている。僕にはそう思えてならない。無表情でいる彼の前に現実や超現実が流氷のごとく次から次へと押し寄せてくるのだ。

そしてそんな彼の前をさまざまな名前のついた人間が通り過ぎてゆく。

虚子の忌の喋る稲畑汀子かな

鏡には映り阿部完市話す


カフカかの虫の遊びをせむといふ


「喋る」「話す」「いふ」。どうしてみんなそんなに口を開きたがるのだろう?彼にとっての先人、つまり「稲畑汀子」も「阿部完市」も「カフカ」も、みな彼に何かを話しかけてくる存在、であるようだ。そして面白いのは、彼はそういった先人たちの話ではなくて、彼らが話している姿そのものを描写してしまう。話の内容自体より、彼らの様子から何かを汲み取ろうとしているのだ。

カフカに関してのみ、言っている内容として「かの虫の遊びをせむ」と出てくるけれども、この言葉は二重の意味で無意味だ。つまり、この言葉のまま受け取ったらなんのことだかさっぱり分からない、という意味でも無意味だし、この言葉の出自はそもそも中村苑子の「翁かの桃の遊びをせむといふ」とカフカの「変身」であることを考えれば、このようなパロディ的要素のみで成り立っていることは明白であり、カフカが新しく傾注すべき何かを言ってきたというわけではない、という意味でも無意味だ。むしろ、「カフカ」がどんな様子でこの言葉を言ってきたのか…虫みたいにくねくね曲がりながら言ってきたのだろうか、などと想像する手掛かりが与えられているところに、この句の面白みがあるように僕には思える。つまり、他二句と同様に内容自体よりも話している様子に価値がある(と読めるように描かれている)。

いろいろと話しかけられても、彼にはその話の内容は迫ってくることなく、話をしている彼ら自身が見えてきてしまう。彼は表情を変えることなくそのような先人たちにも向かい合う。

それに対して、何も話しかけることなく迫ってくる先人がいた。

口閉じてアントニオ猪木盆梅へ

「盆梅へ」で二重に出ているコミカルさ(老人趣味的なチョイスであること、ボンバイエとかけていること)に、「口閉じて」のかすかな不気味さがかぶさり、ぐっと猪木が迫ってくる感じがある。言葉を発しないものの方が、真に迫っているのだ。

白濁の目が松平健ながむ

祖母がベッドに這ひあがらんともがき深夜


無表情に徹しようとする彼と、おそらくは何も語りかけてこないように思える祖母との間には、どのような関係が築かれていたのだろう。それは分からないが、これらの句に表れるのは、自分の感情は出さず、非情なまでに客観的に写生された祖母の姿である。

そうなのだ。彼はデフォルトの状態が無表情、というわけでは決してない。何もしていない、楽に力が抜けた状態が無表情、無感動というわけでは全くなく、むしろいつもどんな現実や超現実がやってきたときにも、身を固くして、無表情でやり過ごそうとしているのだ。そのうちに無表情が板についてしまった、そんなふうな句に見える。

超現実を含めた自分を取り巻く者らに対して、どのような態度を取るか。その核になる部分が主題になるために、彼の句は様々な素材を詠み込んでいても、バラバラであるという印象を受けないし、逆にそのような素材の開拓に眼目があるというふうにも見えない。むしろ、世界のあらゆる者に対峙することでアイデンティティを得る彼の句は、さまざまな素材を必要としているのであり、このような素材の幅広さは当然の要請の結果とも見える。

人類に空爆のある雑煮かな

ビルが皆鏡なす大恐慌前の蝶

そして、どんな素材を持ってきても、どこの国に行ってみても、この世は修羅に違いないのだ。彼の無表情は、そうして完成されてゆく。

作者は関悦史(1969-)



今回取り上げた二人はとても対照的だったように感じた。

読者との距離の詰め方の違い、と言えるだろうか。藤田の句は読者へ向かって自分の感情の流れをしつこいくらいに訴えてくるが、関の句はむしろそれを極端なくらい忌避しようとする。それを両者の技法の違いと言って言えないこともないであろうが、問題は、なぜそのように異なる技法を彼らがとったか、ということだ。そこに世代の差があるのか、それとも実年齢の差があるのか、もっと個人的な資質によるものなのか。興味深いところではある。

藤田は、前回取り上げた越智とは違う形で自己というものが核に描かれているように感じた。関の句と前回取り上げた鴇田の句を比べたときに面白いと思ったのは、鴇田の句には一度も出てこなかった、名前つきの人物(稲畑汀子など)、名前つきの状況(大恐慌前など)が、関の句には頻繁に登場したということ。鴇田の句において捨象された対人間の関係性が、関の句においてはかなり中心的に描かれている。

ただし、その描かれ方は、関係性に没入しない「無表情」なものであることには注意が必要だが。そういった意味では、他者との関係性に重点を置かない鴇田に近い心性なのであろうか。そこまで確定的なことは言えないが、そのあたりも興味深く思った。




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