2010-02-14

〔新撰21の一句〕山口優夢の一句 小林苑を

〔新撰21の一句〕山口優夢の一句
晩年の眼差し……小林苑を


あぢさゐはすべて残像ではないか  山口優夢

初出のときだと思うが定かではないけれど、この句に出会ったときの印象は鮮烈だった。あの紫陽花をどう表現したらピタリと来るだろうかというのは、季節が訪れる度に思うことだったから、ちょっと悔しい気もした。

雨季を象徴する紫陽花には独特の昏さがある。鬱陶しいと言う人もいる。そんな紫陽花を「残像」と見た感覚の冴え、「すべて」と一括りにすることで、あの圧倒的な量感を提示してみせたこも作者の力量を示していると思う。

五七五の文型など、たかが知れている。その中に「○○は○○ではないか」がある。この「ではないか」や「かもしれず」等の疑問・反問・反語の形で終わる句が頻回に登場するようになったのは、ここ二十年くらいのことではないか。言い切ることができない、そんな不安で曖昧な時代ということなんだろう。

幸か不幸か、作者は明晰な頭脳の持ち主で、俳句の形をしっかりと踏まえた句を作る。逆に言えば、どこかに頭で作っている、という印象が残る。そりゃ、頭で作りますがな、と言ってもいいのだけれど、「上手い(いい意味じゃなくて)と言われるけど、下手なんだけど凄い句を作りたい」というようなことを本人も言っていた。上手いという評価には、暗にもっと何かが欲しいんだよという不足感が滲む。

残像という言葉は頭で考えたのではなく、降ってきたはずだ。それは作者の資質の中にあったのだろう。目の前にある紫陽花を過去だと感じる晩年感、そして「ではないか」と言う躊躇。時代を映した心象の句であり、時代と作者が呼応したときに生まれた秀句だと思う。力量があり、感性も豊かだが、どうも優等生的なイメージが強い作者。さて、どんな変身を見せてくれるのかを楽しみにしている。




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