〔新撰21の一句〕谷雄介の一句
振り子の原点……生駒大祐
田楽のぶつかつてゐる皿の上 谷雄介
形式というものはすなわち鋳型であり、形式に従うにしても抗うにしてもその材質には鋳型と肌を合わせた痕跡が必ず残される。
谷雄介はかつてブログ『ねじ巻き』において、岸本尚毅を称して「俳句形式に祝福されている」と述べた。
その文脈を借りて言うならば、谷雄介という文体が俳句形式に祝福されているかどうかは僕には判らない。語の選択の巧みさを自身の「素」であると錯覚させるような岸本の軽やかさと谷の文体は大きく質を違える。そのことは功罪両面を持つだろうし、現在の谷はその硬質を一つの個性として昇華させているわけであるが、それには文字通り「身を削る」闘いが必要であったであろうと思う。
谷雄介が俳句形式と闘う上で武器にしていたのは「技巧」である。谷俳句が一見して青春詠、花鳥諷詠、写生、前衛と多彩な形を取っているように見えるのは谷の「技巧」という光が単波長ではなく広いスペクトルの裾野を持つからである。すなわち技巧が俳句形式に馴染めば花鳥諷詠、馴染まなければ前衛。物に馴染めば写生、叙情に流れれば青春詠と言った具合。振り子のように谷俳句は揺れるが、糸の先は微動だにしない。
新撰21の中で詠む対象に対する執着が最も薄いと感じたのは谷雄介を読んだときであった。谷の心は言葉にした瞬間その対象から離れ、次の対象に向かう。左手に対象を持つ、パタンと右手にそれを重ねる、左手をどける、対象は消え、右手には言葉が残る。
掲句。でんがくという響きのこっけいと田楽という字の美しさの共存。ぶつかつてゐるという巧みでかつその実何も表していない措辞。皿の上というさりげない座五の熟練。それは集の中で青春でもなく諷詠でもなく写生でもなく前衛でもない。技巧が最も純粋な形で生きている句。戦いに倦んだ顔でなく、無理に笑ってみせた顔でなく、しれっとした彼の自然体が見える句。振り子は原点にあるとき最も速度が大きい。そんな谷俳句を僕は愛する。
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2010-02-14
〔新撰21の一句〕谷雄介の一句 生駒大祐
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