2010-02-14

〔新撰21シンポジウムを受けて〕自然の手触り 髙柳克弘

〔新撰21シンポジウムを受けて〕
自然の手触り ……髙柳克弘


「俳句と自然」というテーマにおいて、一つ、看過することのできない問題がある。それは季語の「本意」の問題である。

「本意」とは、詩の素材のもっともそれらしい、本質的なあり方のことである。伝統的詩歌においては、和歌・連歌の題詠を通して、「本意」が構築されてきた。本意は季語(ここでは便宜的に私たちに馴染み深い季語という呼称で呼ぶ)に限らないが、俳諧では、本意といえば主に季語の本意をさすとしてよいだろう。

「もっともそれらしいあり方」といっても、それは必ずしも自然科学的な実際を言うのではない。たとえば、連歌の題の意義についてまとめた里村紹巴『連歌至宝抄』(一五八六年)の中には、次のような記述が見られる。

五月雨の比は(略)水たん〱として野山をも海にみなし候様に仕事、本意也

野山をも海にみなし候様に」とは、実際の五月雨の情景に比べ、ずいぶん大げさな印象を受ける。そのような違和感は、江戸人も感じていた。中で、もっとも先鋭的に、その違和感をつきつめ、伝統的な本意に挑んだ作者の一人が、芭蕉であった。

五月雨の降り残してや光堂  芭蕉

すべてを海のように浸してしまうという「五月雨」の本意に対し、ひとひねりを加え、そのような滂沱たる中にもまぎれない輝きを発している「光堂」の荘厳さをたたえている句だ。

雨にけぶる「光堂」の輝かしさの発見に、芭蕉が『おくのほそ道』の旅によって得た、実感・実情が生きている。そして、その実感による把握が、一句の新しさを担保しているのだ(蕉門においてはそうした技法は「うちかへす」と表現されている)。「降り残してや」と問いかけるような口調は、一抹の俳味をこの句に与えるのと同時に、先人たちへの軽い異議申し立てのようにも受けとられる。

季語の本意は、絶対的なものではない。本意が変容していくケースには、大きく二種類あると考えられる。ひとつは、生活の変容。時代の更新にしたがって、ひとびとの暮らしや感性が変わっていく。季語の本意のあり方も、そうした変化と無関係ではいられない。もうひとつは、詩歌によって読み替えられていくことでの変容である。『至宝抄』は、ある時代に権威的な力を持ちえたが、芭蕉をはじめとする俳諧師たちはさかんにその読みかえを試み、本意そのものの書き換えも行われた(『俳諧雅楽抄』などの伝書にそれをうかがうことができる)。先にあげた「光堂」の句は、その端的な例といえよう。俳句の先人たちは、伝統的な本意と、いま・ここを生きる自己の実感との、せめぎあいの中で、みずからの作品の詩情を打ち立ててきたのである。

ひるがえって、現代俳人は必ずしも、季語の本意を意識して作句しているわけではない。むしろ、自分が見たもの、感じたものに即して句を作る、という姿勢のほうが一般的だ。

今回のシンポジウムの中で、「身体性」というキーワードがしばしば登場してきた。自分の身体を通過したリアルを信じ、作品化していく。必ずしも新しいキーワードとはいえないが、「ゼロ年代」と呼ばれる、ある共通する喪失感を土台にした世代に、最後に残されたよすがとしての「身体」だとすれば、その意味合いは切実さを増してくる。季語の本意と、「身体性」とは、矛盾するようであるが、詩歌においては、互いに反発しあうこの二つの要素の止揚が、重要な課題となってきた。

現代俳句における本意の意識の復活などということを、叫ぶつもりはない。ぺダンティズムの跋扈など、負の効果のほうが大きいかもしれない。だが、俳句が先行するテクストとのかかわりの中で詩情を見出してきたことは確かである。それは、意図するか否かにかかわらず、現代においても、鮮烈な詩情の生起する現場で、しばしば起こっている。

小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり  関悦史

『新撰21』から例示した。「小鳥」(「小鳥来る」)の季語が醸し出す天使的イメージが「姉」に転化されることで、そこに一抹の淫靡さが付与されている。この句の本義は、「姉」と名乗る「小鳥」を飼っている主体の異常性を浮き彫りにすることにあるが、そのような主体のあり方の導き手として「小鳥」という季語に実態の存在感を与えている。先行テクストと、いま・ここで書いている「私」との、緊張感ある関係性が、言葉に過ぎない「季語」に、いきいきとした自然の手触りをもたらすのである。

1 コメント:

tenki さんのコメント...

そんな、本意、本意と言いなさんな、ということですね。

続きを短く書きました≫kigos ethos