成分表34 イラスト 上田信治
「里」2008年8月号より転載
印刷で見る絵と、現物は、まったく印象が違うことがある。
ずいぶん前、天使の絵で人気のあったイラストレーターの個展を見に行った。その人の絵は、アクリル絵具と透明水彩を重ね、ひっかきなども使うミクストメディアふうの質感が特徴で、雑誌やポスターなどでは、絵が内側から光っているように見えたので、これはちょっと大した作家ではないかと思ったのだ。
行って見てあれっと思った、というのは、要するに、現物を見たらぜんぜん光っていなかったわけです。
おそらくその絵は、印刷されて、素材の質感があるていどフラットになって、はじめて効果を生むように描かれていたのだろう。それはイラストと「本絵」の違いということかもしれない。
雪解川有元の絵にからだ浮く 田中裕明
「有元」は有元利夫のことで、80年代とても評価が高かった画家だ。ピエロ・デラ・フランチェスカなどの西洋古典画家が描いた「顔」を引用し、金ブラシなどを使って画面を古びさせるこの人の絵も、本絵かイラストかといえば、イラスト、あるいはグッズだろうと思っていた。
この画家がいつも人物の「手」を描かずに済ますのは(本人は冗談めかして「ヘタだから」と言うのだが)、「顔」だけに視線を集中させるためだろう。
昔、買った画集の絵の、初期には描かれていた「手」を、指で隠してみたら、絵がぱっと「分かりやすく」なったので、そう思った。
つまり絵の中心は、引用されたすばらしい「顔」にあって、あとのいろいろは、よく設計された意匠にすぎないんじゃないか。
そこから、田中裕明も、古典のことばやイメージを、イラスト的な(あるいは現代美術的な)コラージュや引用の手つきで扱っていたのではないかと連想が働いた。彼の書いたものはあくまで俳句なのだから、古典のモチーフを使った作品が、和歌や謡曲の世界に順接するとは限らないし、ましてそれが「伝統」的な俳句であるとは限らない。
ただ一つの方法しか持たなかった有元と違い、並行して試されたいくつもの方法論の存在を思わせる田中裕明のことなので、一概に言えるようなことではないのだが、たとえばこの二句、どう見てもそっくりなものを描いていると思えるのだが、どうか。
まひるまも倉橋山の枇杷の花 田中裕明
昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎
夭折した画家の命日近くには、東京の画廊で毎年個展が開かれるそうなので、いつか見に行くつもりでいる。現物を見てすごく良かったら、イラストで何が悪いということになる。
また、イラスト的な方法のものもふくめ、裕明の句がこれ以上ないほどに「本絵」であることは、言うまでもない。
有元利夫展 2010年2月21日(Sun)〜28日(Sun) 小川美術館
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