2010-04-18

新撰21の20人を読む 第6回 さびしさを見つける女と無邪気な女

新撰21の20人を読む 第6回

さびしさを見つける女と無邪気な女

山口優夢


 


青嵐ピカソを見つけたのは誰

そうは言っても、「ピカソ」は決して未開の地で発見された新種の生き物では、ない。それは、およそ写実的とは言い難い、超現実的なイメージをキャンパスにしたためた一画家の名である。キュビズムの祖にして20世紀の巨人、不世出の天才。横向きの顔と正面を向いた顔を一枚の絵の中に同居させてしまう人、絶えず犠牲者の血を求める戦争に対する怒りをキャンパスにぶちまけた人。そして何よりも、子供のいたずら書きにしか見えないような絵を、芸術と認めさせた人。

この句は、彼を評価するにはそれまでの芸術の評価軸の根本を改めなければならない、というその一事をとっても偉大なる芸術家であるピカソの、その芸術的価値を発見した人は誰だろう、と問うているに過ぎない。ピカソについてはよく知らないが、確かにそういう批評家のような人は誰かいたのだろう。ちょっと頭の良い若者がピカソという画家を題材に何か書こうとしたならば、そういう発想の仕方くらい簡単にできるだろう、そのちょっとした思いつきをいじくって、ぽんと五七五に仕立て上げただけのもので、頭でっかちな、はっきり言えば取るに足らない作品だろう―少なくとも、彼女の句の中で一位に推すほどのものではないだろう。それがこの句に対して僕が短からぬ年月の間与えてきた評価であった。

しかしながら、この句の「見つけた」にさりげなく込められた重要な意味を感じとった時、僕はこの句が彼女の句群の中で無視できない位置を占めていることを認めざるを得なくなった。それは僕の深読みであるかもしれない。しかし、僕はその句の読みをてこにして彼女のこれまでの句群を読みほぐしてゆこうと思うくらいには、この句に対して愛着を持ち始めている。あるいは、この句にひそやかに通う精神的な希求は自分自身の個人的な問題と同根であるとの予感が、僕をしてこの原稿の冒頭にこの句を書かせたのかもしれない。

そもそも僕がこの句に対してあまり高い評価を与えてこなかったのは、今思えば理由のないことではなかった。それは、「ピカソを見つけたのは誰」という、一見、作者自身には何も結びつかない措辞ゆえ、である。先ほど図らずも書いたとおり、「頭でっかち」という印象が、そこにはあった。こういう角度から物を見たらちょっと面白いよね、というくらいの言葉としてしか、僕はこの措辞を受け止められていなかったのだ。

しかし、おそらく彼女の目の前に広がっているに違いない青嵐の情景を思い浮かべたとき、そしてその寄る辺なさや「淋しさ」を追体験したとき、この「ピカソ」は、現実の画家の名前としてのピカソであると同時に、見つけられるべき者たちの総称、と言って悪ければ、そのような者たちの代表、と言えるのではないかと、不意に思いいたった。

ピカソの芸術的価値を見出したのは、批評家だったのだろうか。それとも、彼の身近にいた、絵なんて何も知らない人物だったりしたのだろうか。僕はまるでそのあたりのことは知らないし、彼女もおそらく知らないだろう。「批評家でも画商でも彼の奥さんでもだれでもいいのだが、彼の絵の素晴らしさを見出した人は、おそらく彼のことを最も深く愛し、もっとも深く知っている人だったのではないか」と、少なくとも彼女は思いたいのではないだろうか。そういう、創作に携わる者として、ひいては一人の人間として切実な場所から「ピカソを見つけたのは誰」という言葉が発せられているのだとしたら。それは、単に物事を見る角度をちょっと変えてみました、という言葉とはちょっと違う面を見せることになる。

まわりくどい言い回しになったが、つまり、彼女自身もピカソと同じように誰かに「見つけ」られたいのではないか。それは、自分の俳句作品を評価してほしい、などという次元の話ではなく、自分の居場所を誰かに見つけてほしい、というもっと根本的で切実な希求なのではないだろうか。あるいは、彼女も誰かを「見つけ」たいのではないか。こういう言葉を使って良いのであれば、それは誰かを「愛する」ということとほぼ同義である。芸術作品というものは、そういう、見つけたり見つけられたりという、暗闇で触手を伸ばし合うようなつながりを介在する一筋の細い光のようなものと言えるのかもしれない。だからこそ、批評においては「作家性」などという言葉を誰も口にしたがるのではないか。

このようなテーマをこの句が具現化していると仮定したとき、「ピカソを見つけたのは誰」という書き方が実に功を奏していることがよく分かる。この口語の響きは、たとえば美術館でピカソを見た彼女が、自然と口にしそうな言葉として置かれている。その呟きは、ピカソという画家の裏に隠されているはずの、彼が誰かに見つけられたというエピソードを夢想している彼女自身を鏡のように映し出す。疑問にこたえるためにピカソについて知ることではなく、疑問を共有することをこそ、彼女は読者に求めている。「見つけたのは誰」という疑問にこそ、誰かが誰かを「見つけ」ることについて彼女が関心を持っているということが率直に表現されているのだ。それは他者の存在を求めようとする切ない心の動きだ。

なぜ他者が必要とされているのか。もちろん、それは「淋しさ」のためである。

寂しいと言い私を蔦にせよ
淋しさやサルノコシカケ二つある

しかし、「さびしさ」には二種類ある。「淋しさ」と「寂しさ」だ。これらの漢字が一般的にはどのように使い分けられるものなのか僕は知らないが、彼女の句群におけるローカルルールを上の二句から読みとることはできそうだ。

「寂しさ」は、他者といることで埋められる、あるいは埋められると錯覚できるものであり、「淋しさ」は、他者といることによっては埋められない、もっと言えば、どういった手段をもっても埋められない根源的なもの、と言えないだろうか。しかも、埋められないと分かっていてもこの「淋しさ」のせいで人は他者を求めずにはいられない…。

君が言う淋しさって生れた時のものさ
人の中を愛の中を流れてゆく
(「river」CHAGEandASKA)

ガラにもなくポップスの歌詞から引用してしまったが、つまり、そういうことだ。

「私を蔦にせよ」という奇怪な幻想めいた愛情を投げかける彼女自身が感じているのは、本当は「淋しさ」なのではないか。肉体的に、あるいは精神的に二人が絡みついてゆくことによって満たされるものは何かしらあるだろう。しかし、そこで満たされるのは、決して「淋しさ」ではない。「寂しい」は、甘えた言葉なのだ。それは甘ったれた嘘でいいのだ。その嘘を元手に二人は絡み合い、そして「淋しさ」は手つかずのまま残される。

それに対して「淋しさ」は、サルノコシカケが二つある、というどうにも動かし難い現実を、これはどうにも動かし難い現実なのだと認識したときに、初めて出てくる嘆息なのだ。そんなもの、抱き合っても絡み合っても、どうすることもできない。なにしろ、「生れたときのもの」なのだから。

そのような「淋しさ」にこそ、彼女は彼女自身を通して、あるいは自分の作る俳句を通して迫ろうとしているのではないか。他者につながってゆくために。そんな思いを抱いて彼女の百句を見直してみる。

彼女の百句は、いくつかの分裂した傾向を持つ。

起立礼着席青葉風過ぎた
白鳥座みつあみを賭けてもいいよ
夏は来ぬパジャマの柄の月と星
涼しさのこの木まだまだ大きくなる

いかにも若々しく、いかにも青春っぽく、いかにもさわやか。そういった句は彼女の身上(のひとつ)であったし、これからもそうであるかもしれない。彼女が今まで評価されていたことの一つとしては、やはりこういった清々しさを俳句の世界に持ちこんできたということも見逃せないだろう。

しかし、彼女の百句は必ずしもこのような青春っぽいものだけではない。

冬蜘蛛の呼吸その巣に行き渡る
神無月魚のはやさで絵をめぐる
潦とも言えざるが菊映す
こけてまず驚き顔やジャケツの子

これらの句は、若さよりも老成を、青春よりも巧みさを思わせる。そうかと思えば、

どこへ隠そうクリスマスプレゼント
コンビニのおでんが好きで星きれい

といったような、わざと幼く作っているような句も見られる。

このようないくつかの傾向を持った句風が混在していることは、あるいはまとまりのなさを感じさせるかもしれない。うまさはあっても作家性が欠如している、と見る向きもあるかもしれない。しかし、僕はこれは彼女がわざと等身大であろうとした結果であると考える。

もし彼女の句が青春っぽいものばかりであったら、僕はそれを等身大だとは思わなかっただろう。巧みな句ばかりでも、幼く見せている句ばかりでも、等身大だとは思わなかっただろう。彼女はありとあらゆる方向から自分の立ち位置を書き記そうとする。一人のうら若い女性が、いつでも青春性ばかりを体現しているはずがないのだ。彼女は「みつあみを賭けてもいいよ」とも言うし、潦などという「言葉」にメタ的な興味を示すこともあるし、いろいろな計算のもとで他愛なく「星きれい」なんて言ってみせたりもするのだ。百句という枠の中で過不足なく自分自身を表出して見せること。等身大という演技をきっちり仕上げること。それこそが、彼女のやろうとしていることではないか。

そして、それら一句一句が、彼女自身の、そして彼女の見る世界を構成する存在たちの、「淋しさ」に言及しようとしている。「パジャマの柄の月と星」や「涼しさのこの木」などの句に見られる幸福感を、「冬蜘蛛の呼吸」や「潦とも言えざる」ものたちのささやかな姿を、彼女は書き記しておこうとする。それは、パジャマも木も冬蜘蛛も潦も、ほんの束の間、彼女とこの世界を分かち合っている儚いものであることを、彼女が知っているからではないか。それらの淋しさを、「等身大の」彼女自身が書きとめる。だから、それらの淋しさは余所事にとどまらない。この淋しさを、誰かが見つけてくれますように。それはほとんど祈りに近いものかもしれない。

上にあげた「クリスマスプレゼント」の句など、この一句だけ見ると実に俗っぽく、あまり面白い句とは思えなかったが、彼女の百句の中にあると、少々色合いが違ってくる。どこへ隠そう、という浮き浮きした幸福感の裏に秘められたその儚さまでが見えてくるのだ。あまり一点の曇りもなく幸福すぎる瞬間は、まるで二次関数の極値のように、その前後にこれほどまで幸福ではない時間を内在しているはずなのだ。違う言い方をすれば、あまりに幸福な瞬間は、それそのものが切ない響きを持たざるを得ないのだ。それこそ考え過ぎだろうか。しかし、たとえば

凍星や永久に前進する玩具
ロボットに忘却はなし冬の虹

などの句になると、淋しさや儚さといった主題が露わになりすぎてしまう。これらよりも、僕はクリスマスプレゼントなどの句の方が好もしく思っている。

明け方の雪を裸足で見ていたる

ある朝、確かに自分が裸足で雪を見ていたということ。その感触。自分が世界の中で生きているということ。それをこそ、彼女は「見つけ」てほしいと思っている。ピカソがそこに存在しているということを見つけた誰かと同じように。

作者は神野紗希(1983-)



春の海渡るものみな映しをり

穏やかな、凪いだ春の海。この句に映しだされた空間の広大さは非常に気持ちが良い。広大な空間を描いていながら虚無に陥ることなく、実に充実した光と風に満たされている。「渡るものみな」とは、誰のことだろう?漁船、客船、それらに混じって、かがやく死者たちが一列にわたってゆく。それをすら、海はきれいな鏡のように映しだして見せるのだ。

彼女の句は、無邪気に書かれる。僕が先述のように「春の海」の句に死者のことなど思ったのは、広大な空間に呼び込まれたからであって、彼女の意図ではなかったであろう。彼女は無邪気に自分の見る世界を五七五にするだけだ。そこに何が呼び込まれるかは、その句次第、といったところだ。

秋風の遠回りして届きけり
一枚の障子すとんと外れけり

これらの句は、質素なまでに言葉の装飾をはずして、読者にとっての追体験の敷居を低く設定したことで、読者の記憶のどこかにかちりと嵌るように作られている。

あるいは、

モナリザの微笑の先の水羊羹
冬めくやバジルの鉢を部屋に入れ

のように「水羊羹」や「バジルの鉢」といった身近な素材が彼女のいる世界に精彩を与えたり、

遠くまで金魚の水を買ひに行く
秋風に富士のだんだん見えてきし

のように世界との出会いがさりげなく描かれたりしている作にも魅力があるが、僕が惹かれたのは

ぎちぎちと革手袋の祈りかな

革手袋同士がこすれることで無骨な音が生れる。それはもっと実際的な場面や暴力的なシーンによく似合う。少なくとも革手袋のこすれることでたてられる音は、不器用ながら自分の意志で生きていく強さを感じさせる。そんな革手袋を擦り合わせて「祈り」がつぶやかれる、そこには切実な哀しみがある。

ぎちぎちと、という擬音語に生きてゆく哀しみが感じられなければ、嘘だ。それは、単に耳がいい、という程度以上のものであるはずなのだ。

作者は矢野玲奈(1975-)



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