2010-06-20

新撰21の20人を読む 第10回 美学に殉じようとする男と世界にいやがらせする男

新撰21の20人を読む 第10回

美学に殉じようとする男と世界にいやがらせする男


山口優夢



 

芹たべて一日一日をまぼろしに

過ぎてゆく一日一日をまぼろしにして生きてゆく。それはやるせないほどの喪失感ではあるが、上五につけられた「芹たべて」という何気ない措辞は、もはや彼自身が喪失することに対してさえ何らかの高揚感を抱くこともなく、喪失そのものが常態と化していることをうかがわせる気がして、なんとも言えず痛切なものを感じる。

そう、考えてみれば最初からここには何もなかったのだ。

天の川ここにはなにもなかりけり

なのに、喪失感だけが、なぜか生来のものとして与えられていた。あるいは、それは喪失そのものの喪失なのかもしれない。「天の川」が季語として与えられることにより、「ここにはなにも」と言われている「ここ」のスケールが相当大きくとられていることが感じられる。

今、僕は「天の川」を「季語」と呼んだ。しかし、この句における「天の川」を、本当に「季語」の範疇にくくることは可能だろうか。天の川を秋の季語として見つめるということは、そこに移り行く季節を思い、心地よく流れる秋風を肌に感じ、爽涼とした秋の気分を味わうということだ。しかし、彼は遠くかがやく星をみつめながら、「ここにはなにもなかりけり」と言っているのだ。その言葉がただのポーズでないならば、これほど季語の持つ世界観に反する感慨もないだろう。季語というのは、そこに書かれていない肌触りや感触までも引き出そうとするものなのだから、なにもない、という言葉と共存できるとは思えない。

それはともかく、この「ここにはなにもなかりけり」という言い方は、高山れおな氏が「ゼロ年代百句選ならぬゼロ年代十句選にでも入ってよい句だ。時代がよく出ているから。」と絶賛するには、ちょっとレトリックが大振りすぎやしないかと思うのだが、その分、いろいろ想像する余地があって面白いとも言える。彼が見ているのは、おそらく何の変哲もない夜の街の風景なのではないか。ここにはなんでもある。だからこそ、なにもないと感じているのではないか。そう読みたいのだが、天の川という季語は、それにしてはやや茫洋とし過ぎていて、実は自分の読みにそれほど自信が持てないでいる。

とはいえ、彼に「天の川」という言葉を持ってこさせたのは、物事が内奥に秘めた真実や本質といったものに肉薄しようとする気迫であることには間違いなかろう。それがこの句のスケール感を生みだしているのだ。

さきほど季語の話を持ち出したが、彼の句はほとんどが有季定型を護り、季語の入っていない句はごく少数の例外に過ぎないのにも関わらず、そこに描かれているものは、どうも季語的な世界観、花鳥諷詠の俳句とはかなり異質な響きを持っているように感じられるのは、実は不思議なことだ。

荒梅雨の中ゆく牙の光りもて
終りなき祈りのごとく冬枯れぬ

はるかより近づく蹠蝶の昼    
蹠に「あうら」とルビ
冴ゆる夜の天文台に瞬く眼

それは、季語を用いていながら、季語的な価値観とは別の次元に属するある種の美学をもって句が統一されているからではないかと感じている。むしろ、そのような美学にリアリティを与えて一句の中に定着させるために、季語がそこにあると言ってもいいのかもしれない。

上記四句、どれも、読んでみて頭の中に具体的な画像を思い浮かべようとした時、思い浮かぶのは「荒梅雨」であり、「冬枯れ」であり、「蝶」であり、「冴ゆる夜の天文台」ではないか。しかし、それぞれの句の詩的な中心は実は「牙の光り」であり「祈り」であり「蹠」であり「瞬く眼」なのである。それらの、可視化される一歩手前で踏みとどまっている語群が、季語の再現力を借りて読者の前に引っ張り出されてくる、というのがどうやら彼にとっての詩の方法であるらしい。

では、彼にとって「牙の光り」とは「祈り」とは「蹠」とは「瞬く眼」とは一体なんなのだろうか。それは、予感のようなもの、自分の生命や他の生命の持つもっとも美しい一断面、あるいは、存在が内包している美的本質とも言うべきもの、ではないか。

霜降る夜歯車かたく嚙み合ひぬ

たとえばこの句の表現の勘所は「かたく」と言ったあたりであろうが、同じ歯車を題材にした髙柳克弘の

秋の暮歯車無数にてしづか

と比べると、両者の詩人としての特質が出ているようだ。髙柳の句は無数に存在する歯車が、動かずに静寂を保っている情景を描き、その不気味さ、無機質さに、寄る辺ない思いを深くする、といった体の句だ。「しづか」がこれほどまで非人間的な響きを帯びていることは、あまりないであろう。

それに対して彼の「霜降る夜」の句は、同じく動いていない歯車を描写しているようだが、「かたく嚙み合ひぬ」という表現をなすことによって、緊密な詩情に満たされた緊張感がみなぎっている。「霜降る夜」が、こちらもしんしんとしたしずけさを醸し出しているが、髙柳の句の「しづか」と違って、無機質な感じがしない。かたく嚙み合っているだけに、それがするっとほどけてしまいそうな異様な緊張感が感じられるのだ。そういった充実した緊張感こそが、歯車というものの美的な本質だと、彼は考えているのではないだろうか。

彼の句は、ものごとの本質を志向しようという点でどれも共通しているが、何を描くか、という点でのスケールの取り方はかなり幅があると言って過言ではない。

気絶して千年氷る鯨かな

スケールの大きさで言うのなら、この句か、「天の川」の句が一二を争うところだろう。そして、この「鯨」の句には「天の川」の句にはない手ごたえのようなものがある。それは、「気絶して」という措辞に見出される身体感覚、であろうか。この地球という大地が織りなす自然のダイナミズムが演出した一匹の鯨の数奇な運命。それを五七五の短さに凝縮してみせる気迫はさすがだ。

烈日の剥片として白鳥来
木の中のやはらかき虫雪降れり

白桃や水はひとつにならむとす


上の三句は自然詠と言っていいだろう、自然というものを相手にしても彼は花鳥諷詠的世界観とは別個の美学で詩を書いているのがよく分かる。目の前に見えるものを写実的に映すのではなく、それが本質的に秘めているもの、それは眼に見えない場合が多いと思うが、それを言葉の上に起こそうとしている。

それは、都市生活を送る彼自身の視点に立脚して句を作る際にも同様の構造となる。

青梅雨や電車の隅に目をつむり
自転車のうすくひかりぬ緑の夜

取り出だすディスク虹なす昼の雪

電車の隅に目をつむる彼は、どこか知らない場所へ連れて行かれるかのようだ。しかしどこに行ったとしてもそこは青梅雨の降る世界、ここを抜け出すことはできない。自転車はまるで自分から弱弱しく発光しているようだし、ディスクの虹色は自分の部屋という最も日常生活に密着したテリトリーに無遠慮に入り込んだ幻想のようだ。

そして最も射程の短いところでは、自分というものに向き合っている以下のような句が挙げられるだろうか。

生き延びておそろしきまで繊き月
春眠や蛹の中の綾を思ひ


もちろん、月や蛹を素材として持ってくる時点で、自分だけにその目が向いているというわけでもないが、やはりそうしたものを介して自分というものが意識されている作品と言えるだろう。

つまり、これらの句は月や蛹の本質を突くためではなく、世の中に生きている自分というものの本質を突こうとして作られていると言えないだろうか。「おそろしきまで」という措辞は、描写の言葉としては少々安直なような気がしないでもないが、なんだかとても生きづらそうな様子が伝わってくる。生きることに対して、どこか後ろ向きな様子、それは、眠りの中に閉じこもることの快楽が描かれているところにも表れているかもしれない。

最初に挙げた「芹食べて」の句も、自分自身に言及する句であろう。彼の句は、総じて最初の習作句集「青空を欺くために雨は降る」に比べると、そのスケール感覚としてはだんだん自分の身辺に輪を狭めてきているように見えなくもない。

それをもってたとえば退嬰と呼んだりすることは、単に彼の句の本質を見誤っているだけだろう。彼の句は、どのスケールで書かれていても志向しようとするものは変わらない。むしろその言葉の強度は驚くべきものがある。スケールに関わらず彼が見ようとしているものは、自分が直接には触れられないものも含めた世界の美しさといったものだろう。それは、生きていることの素晴らしさ、のようなイデオロギーに回収されない、単なる美しさを、言葉の上に発見すること、ではないか。

そのような美学的な態度が、一日一日をまぼろしにして生きてゆく、というある種の線の細い生き方の告白につながっているように思えてならない。

作者は冨田拓也(1979-)




豚の死を考へてゐる懐手

彼の句には世の中一般に対する悪意のようなものが垣間見える。本当に心の底から凍えるような悪意、というほど深刻なものではないが、どこか中学生的な、稚気にも似た、悪意だ。

レジ打ち終る寸前アイス持つて来る
簡単に口説ける共同募金の子

目と鼻に惚れたとマスクの女に言ふ


あるいは、いやがらせ、と言っても良い。一句目などはその典型例だろう。わざとそのタイミングを見計らったわけではないのだろうが。レジ打ちの店員さんにちょっと顔をしかめられても、彼は平然と財布の中の小銭を数えている。

共同募金の子、という募金活動に精を出すちょっとかたい感じの女の子を指さして、ああいうのが簡単に口説けるんだよ、と言うその態度。あるいは、実際に簡単に口説けたのかもしれない。口説いて見たら共同募金の子だったのかもしれない。とにかく、共同募金という高邁な理想を追っている行為に対してばっと泥をかぶせるような言い草。コントラストがきつ過ぎて、言いたいことが少し分かりやす過ぎるきらいはあるが、彼のいやがらせ的悪意が存分に発揮された句と言えるだろう。

三句目はもちろん、マスクの女の目と鼻に惚れた、という句意ではなく、そういうふうに女に向かって「言ふ」というところがポイントである。言うだけならなんとでも言える。ただ、マスクをしているから、マスクで隠れていない目と鼻をとりあえず褒めておくかな、といった程度のことだろう。

世の中にいやがらせしている、という括りで考えれば、彼が執拗に下ネタにこだわるのもよく分かる。

春霖や君のおしつこなら飲める
セックスも俳句も惰性発泡酒

雪しんしん膣のぬくさの限りなし

「おしっこ」という単語をまさか旧仮名で「おしつこ」と書くことになるとは、この鑑賞文を書くまで思いも寄らなかったが、それはともかく、こう言われた「君」は顔をしかめるばかりのような気がしないでもない。なぜなら、「君」が、「ええ、それなら飲んでもらおうじゃないの」と言う傑物だったとしたら、そこから始まる酒池肉林をこそ彼は描くはずであり、この句では実際に飲んだかどうかということよりも「飲める」と発言する彼のえげつなさに焦点を合わせているからだ。

二句目はセックスというはっきりした言葉を使い、しかもそれを俳句と並べて「惰性」だと言い切ることで、良識ある俳壇のお歴々を虚仮にしようとした意図はよく分かるが、ちょっとすべっているか。発泡酒の安っぽさにうまく着地できていないのかもしれない。

膣のぬくさの限りなし、というようなことを、もしも彼が本気で書きたいのだとしたら、本当はもっと書きようがあるはずなのだ。何しろ彼は

蝶蝶の監視カメラに集まりぬ
枯れるまで同じ時間の時計草


と言った、幻想的、あるいは抒情的な描写をすらものすることのできる作家なのだから。それが、「膣のぬくさの限りなし」なんて大雑把で全然身体感覚に響かせないような書き方を選んでいるという時点で、これも彼の「いやがらせ」の範疇に入っていると考えるべきなのだろう。いやがらせ、と言うよりは優越感とでも称するべきものだろうか。このセックスの恍惚だけが全てなのだ、こんな気持ちいいこと、おまえらは分からないだろう、というような。

それにしても、「ぬくさ」と言う言葉に「雪しんしん」とつけるのは、彼がよほどコントラストのはっきりした取り合わせが好きなのだということを証しているだろう。冷たさとぬくもりという対比がかなりはっきりと押し出されている。それは、ある意味でどぎつさの演出の一つでもあるのだろう。

彼の100句は春・夏・秋・冬、さらに最後に女LOVERSの5章構成となっているが、この女LOVERSの章を見ると、僕には、彼が女性というものに対してほとんど憎しみを持って相対しているようにしか見えない。

玲奈へ
麗奈だと思うてゐたよ春うらら

春うらら、じゃねーよ、馬鹿にしてんじゃねーよ、と、「玲奈」さんは思うのではないか。どんな季語が来るかによって一句の雰囲気はがらりと変わるものだが、この句における「春うらら」の、のほほんとした感じ、否、わざと、のほほんとして見せている感じは、彼女の名前を間違って覚えていたことに対して毛ほども謝罪の気持ちがないことを感じさせて、むしろ豪気とさえ言えるほどだ。うららを漢字にすると「麗」であるということも計算に入れて作っているのだろうか。

ばらしてごめん、聖子
二回目の豊胸手術梅雨に入る

まいたん☆
陰茎が触れて蛙が触れない

これらの句も、「聖子」や「まいたん」に対して、心の底では馬鹿にしていたり、むしろ憎悪を抱いているのではないかとすら思える口ぶりではないだろうか。

彼が、気持いい、最高だよ、という態度を取ればとるほど、愛やセックスというもののうすっぺらさや儚さが透けて見えてくるのだ。女たちとのつながりが表面的でしかないことを分かっているのは誰よりも彼自身なのであり、そこに安住している女たちに彼はいら立っているのかもしれない。しかし、そういういら立ちは結局最終的に自分に立ち返ってくる性質のものなのだろうが。

だから、

最愛のなっちゃん
傷林檎君を抱けない夜は死にたし

と言われても、彼自身そのポーズにうんざりしながらポーズを作っているのがこちらにも分かってしまうから、なんともいえない悲惨さが匂い出てしまう。そう言った意味で、この女LOVERSの章は彼の個人的な地獄絵巻でもあるようだ。

このような人間関係への基本的な態度は、どの句にも共通するものがある。

金髪を抱きしと墓に報告す
宵寒の電話で作る味方かな


この「金髪」は、個人的には「パツキン」と読みたい。その方がチープさが出て、より句に物悲しさが通う。日本人は、どうしても外国人の肉体的な迫力に圧されてしまう。我々より上の世代だとそれがより顕著であったろう。そんなことを昔愚痴ったりしたのかもしれない、自分の伯父さんか誰かの墓に詣でて、とうとうボンキュッボンの肉体を制圧したよ、と報告する。ああ、涙が出るくらいわびしくくだらない情熱の終着点。いくつになっても寄り集まれば猥談に走ってしまう男たちの挽歌として、これほど涙を誘うものはないだろう。

そんなふうな男同士のつながりに対して、「電話で作る味方」というのは大変に女性的なものを感じる。電話で作る味方、と言うのは、電話で作れる程度の味方、ということなのであり、人間同士のつながりの希薄さを極限まで表しているようだ(もちろん、男性より女性の方が人間関係が希薄だと言っているわけではない。念のため)。敵も味方も、電話一本で決まってしまう程度の人間関係。チープな分だけ味わいの深い句だ。

彼の句は、彼自身が誰か他の人間に対してどのような態度を取るのかということが核に描かれていることが多い。そこでは彼自身の真情はいたずらに糊塗され、あるいは誇張され、あからさまに歪められている。

しかし、彼が自分自身としずかに向き合っている句も、100句の中には含まれているのだ。

豚の死を考へてゐる懐手

豚の死に一人向き合う彼。なんで畜産家でもないであろう彼が、そんなものに向き合う必要があるのか。昔、教室で豚を飼い、それを食べるかどうかで生命の意味について議論をする、という教育現場のドキュメントをテレビで見たことがある。あれは結構有名な話だったと思うので、ひょっとしたらこの句の下敷きになっているのもそれなのかもしれないが、できればそういう意味のありすぎる実話の類は頭から外して読みたい。

なんで死んだか、とか、どうやって死んだか、とか、そういったことを理路整然と考えている訳ではないのだ、きっと。とかくとめどなく、豚の死、というものが頭をぐるぐる回っているのではないか。なぜ彼がそれに取り憑かれているのか、彼自身にもその意味が分からないままに。

それは、いつもふざけていたり人をおちょくっていたりする彼が見せたさびしい本気の一面のような気がする。人生の無意味さに向き合う、しらじらしさよ。

作者は北大路翼(1978-)

3

この連載中では、年齢の開きが一番小さい2人であるはずなのに、これほどまで方法論や素材の異なる作家が最後に並ぶことになるとは思いもよらなかった。これはこれで面白い話だろう。

今回の2人で新撰21の中の自分を除く20人の俳句は全て読み終えたわけだけれども、最後に一応これまでの総括としてこの年代の傾向などまとめておきたいと思うので、連載自体はあと1回だけ続けようと思っている。

乞うご期待。なんて。





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