やっぱり季語が好き
『俳句界』2010年8月号を読む
久留島 元
勝手なイメージだが、初心者・若手・ベテランの問題意識を総花的に扱う角川『俳句』に比べ、『俳句界』はすこしベテラン寄りで微温的、毎回の特集も切り込みが浅い印象がある。
●特集 海外詠と季語~日本の歳時記で詠む危険性 p41-
甲斐由起子氏選の「海外詠三十句選」、加藤耕子氏、高橋悦男氏、品川鈴子氏、倉田紘文氏の文章が並ぶ。
季語に拘泥しない無季派の人はさておき、原則的あるいは絶対的に有季の立場にある作家にとって季語にまつわる問題は、「季語と実態とのズレ」に集約されると思われる。海外詠の問題も、季語と実態とのズレがもっとも表面化するケースと捉えられる。
加藤耕子氏はまず、
詠者が日本生まれの日本人である限り、季語という日本文化の美意識の枠を海外という異質の風土の中で対峙あるいは包括させて機能するよう作句するということになると立ち止まって考えざるをえないという。
そのうえで「日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ 加藤楸邨」の「蝶」をめぐって、実地の季感に即しつつ「共有のイメージ」が機能することを期待する。
以下の各氏も基本的に実態に即しつつ有季定型を守るという立場では共通し、高橋悦男氏の文章のタイトルはそのもの「郷に入れば郷に従え」であり、品川鈴子氏に至っては「難しいけれど海外詠には挑戦してみるべき価値があります」とのたまう。
日本人が日本語を使って日本以外を詠むならば、現地実態からズレるのは当たり前なのであり、その歯がゆさが旅人の視点から詠む特徴にも、限界にもなる。
問題はむしろ旅人ではなく現地の人が現地を詠む場合であろう。季節をあらわす現地語が入れば季語なのか、国際俳句の問題とか、常夏の沖縄における季語とか、いろいろな問題につながってくるからである。
ちなみに甲斐由起子氏「海外詠三十句選」に在外者詠は一句も採られていない。
結局、物騒なサブタイトルのわりに「危険性」が感じられない特集なのであった。
●敗戦忌特集 小野蕪子と俳句弾圧事件 p90-
言わずと知れた特高による弾圧事件と、特高に協力したとされる小野蕪子の特集である。
川名大、今泉康弘氏の概説と、二本の論考、一本インタビュー、編集部による「小野蕪子句抄」という構成。こちらはだいぶん読み応えがあった。
田島和生氏は俳句弾圧事件を扱った『新興俳人の群像 「京大俳句」の光と影』(思文閣出版)の好著で知られるが、同書では小野について詳述しておらず、本稿でも
「京大俳句」事件に蕪子が介入したのだろうか。蕪子は東京日々新聞事業部長から日本放送協会に転進。事件当時、業務局次長兼企画部長。また、文部省の宣旨国民情操調査委員に委嘱されており、当局の動きもつかんでいたと見ていいが、事件との直接の関連は分からない。と慎重な態度である。
インタビューをうけた八田木枯氏は小野蕪子に直接会ったことはないとのことだが、当時の空気がわかって興味深い。「それほど著名な俳人ではなかった」が「昭和十五年に日本俳句作家協会(後に日本文学報告会俳句部会)の理事」になり、「「誰?」と思いました」という。「それもあって、あの「京大俳句」の検挙について、黒幕は小野蕪子なんだとささやかれるようになったと思いますね」
ただし確証があるわけではなく、虚子の追悼句「強霜に友情春の如き人」から見ても、虚子からの信頼はあったのだろうという。
水津哲氏の論考「虚子になりたかった蕪子」も、同時代にもよく知られていなかった実像をまとめており、簡便である。
俳句史上に、どちらかというと暗い印象しか与えていない小野蕪子だが、当時の時代状況を含めて見直してみると面白いかも知れない。
恋猫の月に尾あげし長さかな
柿食ふて日本人は強きかな
明治大正昭和と生きて糸瓜垂る
*
連載でおもしろいのは坂口昌弘氏「平成の好敵手」(p82-)で、今回は岸本尚毅氏と小川軽舟氏。先行俳句との距離感から「昭和三十年代俳人」二人の違いを読み取っている。
一方、なんとなく違和感があるのは「魅惑の俳人 大樹の陰の妻たち」(p149-)という連載。
今回取りあげられているのは角川源義の妻、照子氏。フェミニズムに与して時代性を無視して「女流俳人」を評価するつもりはない。が、『鑑賞女流俳句の世界』(角川学芸出版)のような労作が公刊されている今、あえて夫君とのセットで作家を語ろうという視角に納得できないものを感じるのは私だけだろうか。
総じて私にとって『俳句界』は、なんとなく違和感の多い雑誌、なのである。
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