2010-08-08

週刊俳句時評 第5回 『花束』『鳥と歩く』を読む 神野紗希

週刊俳句時評第5回 
『花束』『鳥と歩く』を読む

神野紗希


今週は、ふらんす堂の精鋭俳句叢書から、読み応えのある、2つの句集が届いた。

岩田由美氏の『花束』と、杉山久子氏の『鳥と歩く』だ。

二人とも俳誌「藍生」の作家で、ともに第3句集。どちらの句集も、定型の中で整えながら言葉をつないでゆく丁寧さが、自在な文体を可能にしている。さらには扱う内容も幅広く、華美な装飾もないため、読みすすめても飽きることなく食傷することなく、どちらも一気に読み下した。

1.

岩田由美氏は、1961年岡山県生。第35回角川俳句賞の受賞者でもあり、句集に『春望』『夏安』がある。句集名、春・夏と続いていたので、秋が来るのかなと想像していたけれど、少し趣向を変えて『花束』という題名。ちなみに、夫の岸本尚毅氏が昨年出版した句集のタイトルが『感謝』。並べてみると『花束』という題がしっくりくるのが面白い。

二度となき雲のかたちよ冬の空
枯芝に塩のごとくに雪残る
目をつむるたび暗くなる秋の暮
椎の実の穴より太し椎の虫
寒卵昼のひかりにかざしけり


1句目、変幻自在に形を変えてゆく雲の、今この一瞬の形のはかなさと、しかし確かに目の前にあるというその存在の確かさを、同時に言いとめている。「冬の空」という季語は、雲のある場所だから、取り合わせの衝撃はほとんどなく、上5中7のフレーズに、出来る限り意味を与えないような配合だといえる(今、歳時記をぱらぱらとめくって目に留まった、たとえば「捕虫網」という少しレトロな季語が入ったとしたら「二度となき」というフレーズが、時代への思いも引き受けてしまうことになる)。「二度となき」のフレーズが、あくまで雲に対しての形容にとどまっていることで、むしろ私は、一度きりしかない、今しかないものが、この世には確かにあるということを実感する。

2句目、雪を「塩」という変わったものでたとえたところが面白い。小さい粒で、きらきらと光っている様子が思い浮かぶ。細い枯芝に宿る雪ということなら、なおさら納得だ。「~のごとくに雪残る」というフレーズは、「一枚の餅のごとくに雪残る 川端茅舎」を思い出すが、あるいはオマージュとして考えても、餅に対して塩という、同じく口に入れるもので返しているあたり、巧みだといえる。

3句目は、目をつむったときのくらやみが、秋の暮のくらやみだとしたら、本当に恐ろしいし、4句目は、椎に開いた穴からむにむにと体をよじらせはみ出させながら出て来る虫をコミカルに想像する。

5句目、「寒卵」という、重心のあるものを、ひかりにかざせる高い位置にもっていったところが新しい。昼のひかりにかざした寒卵は、少し透けているかもしれない。落としたら割れるという存在の危うさが、高いところへかざすことで、より切迫して感じられるのも、冬のこころもとなさを思い出させてくれる。

今回の句集の特徴は、何よりもまず、季重なりも厭わない季語の扱いかたにある。

季語が2つ以上入っている句の割合もかなり高く、これはおそらく意識的に行っているのだろう。〈食べこぼし蟻に与へて昼寝人〉〈瓜葉虫桔梗の花を食ひ破る〉〈朝顔の蕾ゆるみて月白し〉〈空蝉が杉に薊にどこにでも〉〈萍の中なる蛙またたかず〉〈合歓に蝶一度は閉ぢし翅広げ〉〈軒雫氷りて止まる春夕〉〈寒林に八つ手の花の咲くところ〉といった句は、自然や人間のリアルな姿を、季重なりともとれる表現を厭わずに捉えようとしているし、〈夏芝居終りは雪となりにけり〉〈その人のキャベツの色のワンピース〉〈葛餅の白さに似たる肌かな〉〈パソコンの画面の京都涼しさう〉といった句は、季語・季題・季感とは何かを、我々に問いかける、メタ的な味わいもある。

もう一つ、目についたのは、二つ以上のものを並べた句だ。〈行くは蝶来るは蜂なる秋日和〉〈庭に椅子空の手前に梅の花〉〈咲く花は茄子と薔薇と佃島〉〈昼寝して息の豊かに夫と犬〉〈ビル高し花火終はれば月出づる〉〈薔薇を見て坂の上なる雲を見て〉〈我が町にあけびある道栗ある道〉などは、どれも、二つのものを提示して、その二つが両方存在する、少し大きな景色を書こうとしている。

季重なりではありながら、萍の中の蛙や合歓にとまった蝶を詠むという先述の季語の問題も、二つのものが同じ景色の中に存在する状態を詠みたいという点で共通しているから、この二つの特徴は、案外、地続きなのかもしれない。

まとめ。読み物として、愛すべき句の集積として、すでに優れた一冊であるのに加えて、季語という俳句の牙城に切り込む、意欲的な句集だ。栞を寄せている深見けん二氏は「季題の力で一句一句が見事に立ち上ってくる。この季題の無限の力に托した一句一句こそ、由美さんのこの句集にこめた花束なのだと思う」とその文を締めくくっているが、私自身は、季重なりや季語を比喩的に扱った句などを見通して、むしろ「季題の無限の力」よりも「本当の自然のリアル」を信じて書くほうに、岩田氏の作品は舵を切っているのではないかと思った。

ちなみに、

手拭ひに似ても似つかぬ花菖蒲

という、夫の句(*)を踏まえる茶目っ気もある。


「てぬぐひの如く大きく花菖蒲 岸本尚毅」第一句集『鶏頭』


2.

杉山久子氏は、1966年山口県生。富田拓也氏に続き、第2回芝不器男俳句新人賞を受賞している。

第1句集『春の柩』は、不器男賞の副賞として編まれた句集で、応募作品100句をまとめたもの。第2句集『猫の句も借りたい』は、翌年出版。猫を詠んだ句ばかりを108句(煩悩の数だという)集めた、ユニークなコンセプトの句集だ。集中の〈百合の実のつめたさに猫とむらひぬ〉は、現代詩手帖6月号のゼロ年代100句選にもひかれていた句。百合の実を介して、猫をかき抱いたときのつめたさがひやひやと感じられるところ、かなしみが触感を通じて、じんわりと伝わってくる句である。

傘の柄のつめたしと世にゐつづける
手まねきの猿おそろし夕桜
なきがらをかこむ老人天の川
雛納め雛より鼓とりあげて
朝日さす土筆の頭つめたかり
うぐひすの喉のてざはり死のてざはり


1句目、雨の日、握っている傘の柄が冷たいことに、ふと生きていることの手触りを重ねている。「つめたしと」と「と」でつないであるから、「傘の柄のつめたし」というフレーズは、ふとこぼれた、何気ない言葉であると考えられる。すこし厭世的な気分になっている視界には、降り続く雨。その景色にあまり色を感じないことが、「世にゐつづける」ことの意味を、私に問いかけてくる。

2句目、猿には「ましら」とルビ。当の猿は、手招きのような動きをしているだけで、手招きをしているわけではないのだろうけれど、その行動を手招きと見てしまう主体の心象が「おそろし」の感慨につながる。猿というのは、とても人間に似ていて、しかし、決定的に違うものという、不思議な存在でもある。その、猿という存在の「似ていて違う」おそろしさを感じる句だ。夕桜の華やかなほの明りが、不気味に世界を彩る。

3句目、なきがらを囲む老人たちも、遠からぬ未来、同じ立場になって見下ろされる運命にある。そんな老人たちを見下ろす天の川。見下ろすもの/見下ろされるものの関係性が面白い。くりかえし反芻するたびに切なくなる、大好きな句だ。

4句目、「とりあげて」の措辞が秀逸。奪われる存在としての雛が描き出されていて、心なしか、雛がかなしそうな表情をしているように思えてくる。

5句目、「頭」といいなしたところに、つんと立つ土筆の様子と、その土筆に対する愛情が表れている。しかし、ことさらに甘くならないのは「つめたかり」と、土筆を幸せな存在としては描かなかったところによるのだろう。朝日のまぶしさと、まだ朝露に濡れている土筆を吹く風まで、感じられる1句。

6句目、「うぐひすの喉」という、頼りないものに触れたとき、力を入れれば死んでしまうことに思い至った、ということだろう。それを「てざはり」というリフレインで表すことで、普段五感では感じることのない「死」の存在が、何か明るみに晒されたような感じがする。

他にも、注目すべき句は多い。〈毛虫くる背にびつしりと水の玉〉〈ゆふがたのトタンに跳ねて秋の蝉〉〈凍鶴でありしがふいに喰らひけり〉といった句は、命の力がふいに現れる驚きを、さらりとものしている。

そうかと思えば、〈初燕告げたきことを箇条書〉〈薄氷やちかくの人に書く手紙〉〈マフラーにしづめし口のとがりゐる〉といった、生活の一断片を適量切り取った、好感の持てる句もある。

あるいは、〈星満ちて白鳥の首かたくあり〉〈水仙やふるへとまらぬ星ひとつ〉〈ガラスペン光をとほす鳥の恋〉といった句に代表される、星や月、花といった美しい存在に思いを寄せたロマンチックな句が、久子の愛する世界ではあるかもしれない。しかし〈薔薇の芽に雨といふ音楽の降る〉〈額に享く花びらはましろきひかり〉といった句は、そのうっとりとした気分が昂じすぎて、表現に意図が表れすぎているように思った。

このように幅が広いのに、一冊として、ばらばらな印象がない。それはどの句にも、生きているという出来事に対する立ち止まりのようなものが感じられるからかもしれない。

卵割る春夕焼のただなかに

料理をしているのだろう。キッチンの窓には、春の夕焼の景色が広がっている。夕焼の光は、部屋の中までも満たす。だから「ただなか」。その夕焼の色の中、割り落とされる卵の色のかがやき、つややかさ、豊穣さといったら。食べるという行為の一抹のさびしさを潜ませながら、割り落とされる卵の美しさが、余すことなく書かれている。

(了)

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