2010-08-22

週刊俳句時評 第7回 「リア充死ね」と言う若者は俳句の夢を見るか ~第13回俳句甲子園と第3回芝不器男俳句新人賞 山口優夢

週刊俳句時評第7回 
「リア充死ね」と言う若者は俳句の夢を見るか
~第13回俳句甲子園と第3回芝不器男俳句新人賞

山口優夢




先日、松山で第13回全国高校俳句選手権大会(俳句甲子園)が開催された。今年、僕は俳句甲子園のOBOG会に入って俳句甲子園をお手伝いするのではなく、全くフリーな立場で母校を応援し、今の十代の俳句を見る、という目的を持って、俳句甲子園の行なわれている松山を訪れた。

当日の様子は石原ユキオさん、江渡華子さん、さらに数人の高校生たちによってこの週刊俳句誌上にレポートしていただいたので、僕は触れないでおく(第一、それは時評というこの稿の目的から逸れてしまうし)。この稿では、若手俳人の輩出に大きな役割を果たしている俳句甲子園という場が、今年はどのような俳句を生み出したのか、に焦点を絞って見ていきたい。まずは今年の俳句甲子園の入選句、優秀句の中から気になるものをいくつか見てみよう。

入選句の中では、次の句が気になった。

祖母の手を引けば螢の散ってゆく 福永郁美 熊本信愛女学院高等学校
少年になりたき少女晩夏光 羽田美帆 茨城県立下館第一高等学校
秋葉原男二人の晩夏かな 菊池達海 岩手県立黒沢尻北高等学校
炭酸のような少女の夏帽子 山内優奈 愛媛県立松山西中等教育学校

一句目、「螢」によって演出された夢のような世界が、祖母の手を引いて歩いてゆく中で流れるように通り過ぎてゆく感覚が、心地よくもあり、また、儚さをも感じさせる。

「母」ではなく「祖母」と言うのが、ある意味では十代の若者らしいと言えるかもしれない。と言うのも、もし「母の手を引けば」だったら、自分が小さな頃に比べて衰えた母に対する哀れみのようなものが底流することになるだろうが、「祖母」と言うのは、彼女が生れたときからおそらく手を引いてあげるべき存在だったのであろうことがうかがわれる。よって、「祖母の手を引けば」には「母の手を引けば」に比べて屈託が少ないように感じる。

それに対して、「少年になりたき少女」という言い回しはやや屈託を帯びたものになっている。ただし、そこまで強い屈託ではない。少女は自分の性を自覚し、それを嘆いていると言う感じでもない。好きな男の子がいるのだろう、彼と近しくなりたいという思いがこのような言い回しを引きだしたと考える方が自然のような気がする。晩夏光という季語が、かすかな切なさを帯びている。

三句目の「秋葉原」の句は、いかにもおもしろい句、という感じで、オタクっぽい二人の男が「ホントはおまえとなんかじゃなくて女の子と来たいんだよ」とかなんとかお決まりの会話をしながら歩いている様子を想像しても良いのだが、僕はどちらかと言うと、「秋葉原」という地名そのものから受けるイメージを楽しみたい。

「秋葉原」という地名だけを提示されると、かなりものさびしい原っぱのようなところを想像する。そういう人影の見えない原っぱを男二人が歩いてゆく晩夏の光景には、なんともいえない逞しさのようなものが感じられる…と言うのは、あまりに無茶な読みだろうか?

四句目、まさか夏帽子がシュワッとするわけもないだろうと思うので、炭酸のようなのは夏帽子ではなく少女なのだろう。こういう句は、少女の様子を具体的に説明しようとすればするほどどこか陳腐に思えてくる気がしてしまって、できればこのまま何の説明もなく「炭酸のような少女」なんだな、と思っていたい。珈琲のような大人の味をまだ知らない若さがあり、甘ったるいジュースに比べて嫌味がなく、屈託のない明るい少女の一典型として、うまい表現だと思う。

つづけてスポンサー賞からは次の二句。

遠雷も私も未来の記憶かな 佐藤幸 仙台白百合学園高等学校
遠雷や規則正しく卵割る 工咲恵 熊本信愛女学院高等学校

別に意図したわけではないが、両方とも遠雷の句。

一句目の認識の仕方にはちょっとびっくりした。現在の「私」は未来の「私」の記憶である、というのは言われてみれば当たり前で、そこまで新しい発見というわけではないだろうが、客観写生とか二物衝撃とかいう言葉が先行しがちな俳句というものの中においてはこういう認識自体が出てきづらく、なかなかに新鮮な気もする。

現在の私をいま、ここに確かに「実在」するものとしてではなく、「未来の記憶」という不確かなものとして捉えている。しかも、遠くにあるために現実感が微妙に薄い「遠雷」のイメージが重なってくることで、今の自分の存在すら、あっという間に過ぎて行ってしまう儚いものに思えてくるのだ。

それに対して二句目は、遠くと近く、大きなものと小さなもの、という二物衝撃の骨法をきちんと踏まえた作り方で、「規則正しく卵割る」の呼吸も悪くない。何個も何個も卵を割っている様子が分かるし、職人技のように規則正しく卵を割っている様子は、無我の境地に至っているようにも思える。遠雷が、意識の中の遠い片隅で意識されている感じが、面白い。

優秀賞からはこの一句を挙げたい。

いかづちやおびただしき手のデッサン 冨田真由 石川県立金沢泉丘高等学校

「デッサン」なので、最初から手をおびただしく描こうとしたのではなくて、うまく描けずに何度も何度も描き直しているうちにおびただしくなっていった感じがする。紙に残された焦燥感の名残のようなものがまざまざと感じられ、まがまがしい。

おびただしいのが「手」だというのも良い。描かれた「手」たちが、一斉に、デッサンを見ている我々を掴んできそうな、または助けを求めているような、そんな気がしてくる。ただごとでない焦燥感を感じさせるこの「おびただしき手のデッサン」というフレーズに対して「いかづち」という激しい季語をつけるのは、少し演出過多のように思われないでもないが、逆に言えば、他の季語ではこの激しさを受け止めきれないだろう。

そして最優秀賞に選ばれたのは次の一句。

カルデラに湖残されし晩夏かな 青木智 開成高等学校

大きな景色、はるかな時間を詠み込んだ一句。まずは素材として「カルデラ」というものを持ってきたことで景色の広がりがあるし、「カルデラ湖」と言えば済むところを「カルデラに湖残されし」と表現したことによって、火山が生じ、カルデラができ、そこに水がたまって、その水が徐々になくなって、…というカルデラの変遷がうかがわれるところに、大きなスケールでの時間性が見える。

晩夏という季語のつけ方は、単純に気持ち良い風が吹いてくる感じもあって好きだが、さらに深読みするのであれば、延々と繰り返される季節の順行が、カルデラ湖の変遷というスケールの異なる時間の流れと交錯する感じが心地よい。何万年も前にも、ここには似たような晩夏の風景があったような気がする。けれども何万年か前にはきっと少しだけカルデラ湖の様子は違っていて、何万年か後のカルデラ湖の晩夏も同様に、きっとちょっとだけ違っているのだろう。たゆたうようにゆっくり変化してゆくカルデラ湖の、その中でもちょうど今見えているこのカルデラ湖の様子に出会えた偶然は、永遠と一瞬の交錯、という、自然詠が根本的に目指している境地のひとつに触れている感じがある。

ところで、今年まで13回の俳句甲子園の最優秀句を見ていると、一つの傾向があるように感じられる。それは、時間性を感じさせる句、つまり自分をはるかに超えた大きな時間と自分自身との交錯が主題になっている句が多い、ということである。

小鳥来る三億年の地層かな 山口優夢 (第6回)

拙句を挙げるのもなんなのだが、この「小鳥来る」と今回の「カルデラ」の句は、13句の中でももっともスケールの大きな時間をテーマに扱っている感じがある。かぎかっこの中は、第何回の俳句甲子園で最優秀賞を受賞したかを表している。

かなかなや平安京が足の下 高島春佳 (第7回)
夕立の一粒源氏物語 佐藤文香 (第5回)

数百年の単位での時間性が表れているのは上の二句。どちらも「平安京」「源氏物語」という時間性を負った言葉を自分に引き寄せるために、「かなかな」「夕立」という季語が巧みに使われている。

カンバスの余白八月十五日 神野紗希 (第4回)
琉球を抱きしめにゆく夏休み 中川優香 (第12回)

これらの句は時間性というよりも歴史性を負っていると言った方が適切かもしれない。ここで表された時間のスケールは数十年から数百年の単位だが、人間の生きる時間スケールに一番近い分、ある意味ではもっとも切実だ。八月十五日が終戦記念日であることは言うまでもない。中川の句では「沖縄」ではなく「琉球」となっていることで、必然的に沖縄のたどった歴史性を背負い込むことになる。

この、「時間性」という傾向は、もちろん全ての句にあてはまるわけではなくて、

それぞれに花火を待つてゐる呼吸 村越敦 (第11回)

のように、繊細にして大胆な切り取り方をしてみせることで花火の様子を臨場感たっぷりに伝える句や、

宛先はゑのころぐさが知つてをる 本多秀光 (第9回)

のように、若い抒情性を前面に押し出した句も過去の最優秀賞受賞句には存在する。

ただし、13句あるうちの6句にあてはまる特徴というものがあるのであれば、それは十分に一つの傾向をなしていると呼んでもいいのではないかと僕には思えるが。

このような傾向が見えたと言う点は、個人的に今回の俳句甲子園の俳句を見た収穫のひとつであった。



最優秀句に限らず、俳句甲子園で登場する俳句には共通点があるように思える。どの句にも、屈託というものがほとんどないのだ。こういう例がいいかどうかはともかく、高校生くらいだと「リア充死ね」みたいな屈託を持った子がいてもおかしくないはずだが、そういった負のエネルギーをもった俳句はほとんどない。

それは「俳句甲子園世代」と言われる若い世代の俳句全体の特徴だろうか?必ずしもそうではないのではないか、と思えるのは、同じように新人発掘の場として近年注目を集めている芝不器男賞から、次のような句を作る新人が登場しているせいだ。

結果より過程と滝に言へるのか
せいぜい着飾ることだ誰も見てをらん
携帯を踏みつける足が欲しいよ     御中虫

御中虫は数カ月前に行なわれた第3回芝不器男俳句新人賞の受賞者。これらの句が新鮮で素晴らしいものなのかどうか、それはいろいろと議論は分かれるところだろうし、ここでは彼女の句の評価を下したいわけではない。ただ僕が思うのは、世代的には俳句甲子園世代とあまり変わらないはずの20代の作者が作るこれらの句は、俳句甲子園からは明らかに遠い地点に存在している、ということだ。

一句目は、滝というものには水が落ちてゆく「過程」しか存在しないじゃないか、という認識に基づいて書かれている。そういう意味では理屈っぽい句ではあるが、「滝に言へるのか」という文体からは、「結果より過程」というクリシェに対して憤っている彼女の気持ちが噴き出しているのを感じる。その怒りのパワーはそのまま二句目にも通じていよう。三句目で面白いと思うのは、携帯を踏みつけたい、のではなくて、携帯を踏みつけるための足が欲しい、と言ったところ。彼女が今持っている足では、携帯を踏みつけることはできないのだ。

彼女の俳句には季語がないものが多い。上に挙げた三句のうち二句が無季であり、残る一句も季語たる「滝」は主役ではなく、「結果より過程」という言葉が主役であることを思うと、少なくとも花鳥諷詠の有季俳句と一緒くたにしていいものかどうか、判断に迷う。

歳時記は要らない目も手も無しで書け 御中虫

という一句があるくらいだから、彼女は季語には拘らないだろう。むしろ、季語や写生という方法論に拘る俳句という文藝そのものにまで彼女のいら立ちは向けられている、という感じがして、興味深い。また、彼女の句の中に込められた怒りが諧謔にまで昇華するものもあって、

じきに死ぬくらげをどりながら上陸 御中虫

などは個人的には好きな句である。

御中に限らなくとも、芝不器男賞で評価を受けた俳句は、俳句甲子園で評価を受ける俳句とはやや傾向を異にしている感がある。たとえば、第1回の受賞者である冨田拓也。彼には、

気絶して千年氷る鯨かな 冨田拓也

という句がある。「千年」という壮大な時間性を感じさせる言葉が入っている点、一見すると、このような時間性は先ほど指摘した俳句甲子園の最優秀賞受賞句の傾向に連なるように見えなくもないが、ここには決定的な違いがある。

先ほどの俳句甲子園最優秀賞受賞句では、どれもスケールの大きな時間性を詠み込む際、それを詠んでいる自分自身の視点が、意識的/無意識的に設定されている。拙句の「小鳥来る」、青木の句の「晩夏」、佐藤文香の句の「夕立」、高島の句の「かなかな」などの季語は、今現在の自分の五感によって感じ取られているものであるという点で、自分の存在を時間性の中につなぎとめる役割を担っている。神野の句の「カンバスの余白」というモノ、中島の句の「抱きしめに行く」という行為にも、そのような役割があると言っていい。

それに対して、冨田の句では、千年氷る鯨を見ているものは誰なのだろう。誰でもない誰か。いわば、神の視点とでも言うべきものである。彼の句を時間性の観念的な弱みから救っているのは、「気絶して」という鯨自身の肉体的感覚であり、彼自身の視点、彼自身の気配は、この句の中からは消されている。

さらにもうひとつ、冨田の句と俳句甲子園最優秀句の相違点を述べるならば、俳句甲子園の句では、時間というものに対する肯定的な目線、時間そのものに対するロマンティシズムのようなものが基調にあるものが多いのに対して、冨田の句では、千年という悠久の「時間」は無情にも通り過ぎ行く無表情な化け物のように描かれている。それは、冨田自身が「現在」に立って、悠久の時間に思いを馳せる、という視点から書いている訳ではないからだ。このようなニヒリズムも、俳句甲子園からは出て来にくいものではないか。

あるいは、同じく第1回芝不器男俳句新人賞で城戸朱里奨励賞を受賞した関悦史。彼がこの頃作った

「君トナラトモニ殺セル青イ鳥」 関悦史

という句が、たとえば松山の大街道に垂れさがった大きな短冊に書かれて登場し、この句について関さんがあの淀みない語り口でディベートを行なう、という展開は、頭の中で想像するだけでも、とてもシュールだ。すごく、思い浮かべにくい。

俳句甲子園と芝不器男俳句新人賞で登場する句の傾向にこのような違いが出る理由は、いくつか考えられるだろう。俳句甲子園に出場するのは高校生であり、芝不器男賞に応募するのは100句そろえることに自信を持った20代以降が多い。このように参加者の年齢が微妙に異なっていることも俳句の表現に差異を与える理由の一つにはなるだろうが、おそらくもっと決定的なのは次の二点ではないだろうか。

・俳句甲子園はチーム戦である。みんなで力を合わせて勝つために戦う、という雰囲気の中では、屈託のある句は出てきにくいのではないか。それに対して芝不器男賞は、どこまでも個人戦であり、自分の責任は自分で取るしかない。芝不器男賞では破天荒な句が出てきやすく、俳句甲子園では全体として抑制した俳句の良さがうかがえる。

・俳句甲子園は一句ごとに評価を受ける。それに対して芝不器男賞は、百句まとめたものを審査される。百句まとまっていた方が、屈託も含めた一人の俳人の世界を作りやすい。ただし、俳句甲子園でも飛び抜けた一句が出る可能性は十分ある。

このように現在若手を輩出している代表的な場である俳句甲子園と芝不器男賞が、それぞれ異なる傾向を持つ句を評価しているということは、新しく出てくる俳句を豊かにする上で大事なことだと思う。これらの場が相互補完的に機能し、これからも多様な俳句の若手が出てくるのを、目撃していきたい。

2 コメント:

匿名 さんのコメント...

まさか自分の俳句について
コメントが書かれるなんて
思いもしませんでした。
今すごく驚いています。
入選20句に選ばれただけでも
嬉しいのにその中から4句で
鑑賞してもらえるなんて!



最優秀句は
カルデラに湖残されし晩夏かな
です。

山口優夢 さんのコメント...

こんばんは

どの句の作者の方か分かりませんが、どれも面白い句でした。楽しく鑑賞を書かせていただきました。ありがとうございました。

最優秀句の誤記、指摘していただいてありがとうございました。早速直させていただきました。

山口優夢