成分表39
アニメーション
上田信治
『里』2009年9月号掲載
『時をかける少女』というアニメーション作品の中に、私鉄の電車の車両が、商店街の踏切近くでカーブを曲がってぐいぐいと近づいてくる、という描写があって、それを見たとき「おお、これはブルースだ」と思ったのだが、それはどういうことだったか。
アニメーションによる、現代日本の日常風景の再現は、高畑勲『おもひでぽろぽろ』近藤喜文『耳をすませば』あたりを嚆矢とする。
現代日本に限らなければ、それ以前、同じ高畑、近藤のコンビによる『赤毛のアン』のような仕事があって、そこでは、主人公たちの、水を汲む、靴を履くといった日常動作が、執拗ともいえる丁寧さで描写されていた。
そこに現れるドラマチックならざる日常生活を、作品は、価値としてつつましく主張するのだが、その主張は、セル画で動作を再現する膨大な手間によって、支えられていた。日常動作をなめるように見て手描きで再現する、その手間が愛情の同義語として、汚れなき価値の存在を主張し、同時に、見る者に「注視」を要求する。
注視を要求するものが、そのまま価値であることは、作品にとって正しい。その価値が、作家の意図と一致していても、していなくても。
前出の『おもひでぽろぽろ』『耳をすませば』でも、同様の日常の価値が主張されているのだが、この両作において、スクリーン上でなによりも目を引くものは、アクリル絵具で描かれた精緻な背景画であった。
そこで価値として提示されるのは、主人公たちが生活する郊外や農村の日常なのだが、その郊外や農村が、まさに抒情味たっぷりの「絵」で描かれ、撮影されている。抒情に罪はないのだが、抒情を絵に描いてしまうことは、価値のプレゼンテーションとして、やはりやや性急というか、ひと手間足らないような気がする。
それ以来(かどうか、知らないが)日常風景は、アニメーション作品で、もっとも頻繁に使用される抒情性の表現となっていて、それは『時をかける少女』にも、たっぷりと仕組まれている。たとえば夕方色に描かれた街並や河原は、それこそ「絵に描いたよう」に抒情的なのだが、くだんの電車が近づいてくるカットには、想定外の趣があった。
描写の手間と完璧なタイミングによって再現された、ほとんど美しいと言っていい姿で、私鉄の車輌がみるみる近づいてくる。
繰り返し描かれる電車の車輌は、物語の進行につれ、時間の中断=「死」の象徴であることが明らかになるので、じっさい力の入った描写だったのだろう。その電車の画面への登場に、自分が「ああ、ブルース」と思ったのは、意図の分からないていねいすぎる描写が、日常に突出する「不安」の表現として、メッセージされていた、ということだと思う。
だいたい、抒情抜きのまっ正直な描写というものは、奇妙に美しく不穏なものだ。それが真夏の日常であったりすれば、それはもう、ブルースである。
竹の皮道にストンと落ちにけり 相島虚吼
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