2010-10-17

中学生が読む新撰21 第6回 越智友亮・藤田哲史

高校生が読む新撰21 

第6回 越智友亮・藤田哲史……青木ともじ・山口萌人

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

●越智友亮論……青木ともじ

1

   塩・砂糖・胡椒・春光・母の声


越智氏の百句を読んですぐにその句風の新しさが目につくであろう。この句もまたそんな中のひとつである。名詞が五つ、それぞれを「・」で区切っているというのを見ただけで度胆を抜かれる。


   目には青葉山ほととぎす初鰹   

の素堂もびっくりである。しかし、越智氏の句は名詞の羅列であるのに、景がよく見えてくる。春の台所の一景であろう。勝手口から漏れている春光の柔らかな日差の中で、母の声を聞いているほのぼのした空気感がでている。その新しさはこの他にもいろいろな形で見えてくる。


   古墳から森のにおいやコカコーラ


おそらく季語があるとしたらそれはコカコーラであろうが、それを季語とするか否かは問題となるところであろう。賛否の分かれるところだとは思うが、炭酸、或は、ソーダ水の傍題として季感を出すには至っているのだろう。だが、例えばここでソーダ水としてしまえば句の雰囲気は損ねてしまうであろうから、コカコーラという斡旋は良かったと私は思う。あの茶色っぽい色合い、薬草のような匂いはこの句に合っている。

2

比較的表面的なことを批評してきたので、内容にも触れよう。彼の句はその目の付け所が新鮮である。ここに二つ句を挙げてみることにしよう。

   ひまわりや腕にギブスがあって邪魔

   囀やサラダのおかわりは自由

ひまわりの句、中七下五のフレーズが魅力的。案外こういったよみぶりはできないだろう。また、ひまわりがフレーズによくあっていて目を引く句である。
囀の句、近頃はサラダバーなどといって好きなだけ食べられるシステムをよく見かける。だがそれを句にしたのはなかなかないだろう。現代の生活感の一側面としては面白いところを切り取ってきたのではないかと私は思う。また、囀もよく効いていてすべての句のなかで特に好きな句である。
これらの句が新鮮さを感じる所以は表現のしかたにあるだろう。前者は中七下五のフレーズの、ある種話し言葉的なところがよい。後者は述べたとおりである。これらに魅力を感じるのは主眼をどこに置いているのかにあると思う。取り合わせの俳句においては二つのものをもってくるか、何かしらの動作をもってくるのが主だが、これらに関しては少し違うように思う。前者の場合、「邪魔である」という事実ではなく「邪魔」、後者も「自由である」ではなく「自由」、という、ことがらではなく感情におとしているのである。その率直な心情に主眼を置いているからこそ、身近にも思えるし、素直に新鮮さを感じられるのだろう。

3

偏に新鮮さと言ってきたが、その新鮮さを感じる所以はどこにあるのだろう。それはやはり彼のフレーズにあるに違いない。

   ひまわりや腕にギブスがあって邪魔
   暇だから宿題をする蝉しぐれ
   すすきです、ところで月が出ていない

これらなどは彼独特の言い回しである。口語調と言うべきかはわからないが、このどこか親近感のある言い方は、読者に句を好きにさせてくれるだろう。句の内容だけではなく、フレーズ自体も彼の俳句の魅力なのである。また、私は今、ワードで文章を打っているのだが、彼の句を打って変換を押すと、彼の句のとおりに変換された。これは言い換えれば、一般の人が一番読みやすいような表現を使っているということなのではないか。それもまた、句を身近に感じる理由のひとつかもしれない。

   空に星金魚すくいの好きな友

この句もそうである。余談になるが、私の後輩に金魚すくいが実に上手い人がいる。その腕は祭りの金魚すくいで三十八匹をすくいあげるほどである。越智氏の句が読者に共感を与えるにあたって、フレーズそのものが格別に活きていることはたしかなことである。

4

ここでひとつ留意したいことがある。フレーズの魅力に必ずつきまとうことは、出来上がった句形への言葉の置換が可能であることである。実際に、

   ひまわりや腕にギブスがあって邪魔

のほかにも


   菜の花や大声で呼ばれて困る

   新緑のホースの巻きかたに迷う

などは破調であるだけともいえるものの、「五、十、三」のリズムという面で共通している。これがある種のマンネリ化と言う人もいるだろう。しかし、それはすこし違うような気もする。「○○や~」ではじめて名詞で終わらせる、というような有名な句形のひとつとして、これらも同じように見ることができるのではないか。通常の「五、七、五」では言えないことを言う道具としてこの句形を用いるからこそ、彼独特の句風は生まれるのである。
小野裕三氏の「越智友亮小論」の題は「俳句を継ぐもの」である。越智氏の俳句は現代の人間にしっくりくるような斬新な言い回しを用いる、一言で言えば現代的なところがあるが、彼の俳句は現代にも通用する新しい形に挑んでいるのだと私は思う。そんなところに「俳句を継ぐ者」と言われる所以はあるのではないかと私は思うのである。


●藤田哲史論……山口萌人

   きつつきや缶のかたちのコンビーフ

上五の「や」で句を切って名詞止め。一読すると、しっかりとした有季定型に足がついた句という印象を受けるだろう。しかしこの句のまなざしは、決して旧来のものの模倣には流れていない。「缶のかたち」と改めて言われたときの再発見の面白さはもちろん、季語の「きつつき」が、このコンビーフという何でもない肉塊を見つめ直すきっかけになるといえないだろうか。第一義的にはキャンプの朝食の気分や郊外の一軒家の広い台所などの気分の良さを引き出しているが、さらには、啄木鳥の段々と木を穿つときの様子と、あの四角い缶をこきこきと開けるときの感覚がここではどこか合っているよう僕には思われる。
新撰21を見ても、自己紹介欄に「切れ」「定型」を意識している、と書かれている。伝統と現代性の両方に対して誠実であろうとする百句を読み解いて行こうと思う。

1

   新緑にまた大学の鬱然と
   夏座敷ギターもち出しきて弾けず
   
我も汝も秋冷のもの汝を抱く

一句目。どっしりとした大学の古い建物がありありと浮かぶ。句形に多少のごたつきがあるかもしれないが、この句では逆に「鬱然と」と落としたことによって「新緑」と「大学」の瑞々しい印象が一瞬にして拭き取られてしまうような、不思議な感覚に陥る。
二句目。納戸にでもしまってあったギターを引っ張り出してきたのだろうか。恐らく(引っ張り出して来る位だから)ギターを全く弾けない訳ではないのだろうけれど、逆にそれが「弾けず」の否定語に意識されるのだろう。そういえば、村上春樹『ノルウェイの森』で前述のようなシーンがあった(下巻・終わりの方だったように思う)。あの小説のような「どこか静謐な世界」を感じてしまうのは「夏座敷」が、広い畳の部屋にぽつんとギターと自分が存在しているという景を思わせてくれるからかもしれない。
三句目。行為そのものを思えば恋の句のはずなのに、なまなましさが無い。感情におぼれていないし、逆に「もの」同士が混ざりあえない虚無感(言葉にしてしまうとやや理知的な読みになるだろうけれど)が押し出されているように思う。
これらの句群を見ていると、人が集まり学ぶ大学という場所を、弾こうにも弾けないギターを持て余す自分を、そしてぬくもりを分け合う恋人という存在までもを、作者は空虚感をもって見つめていることに気付く。その下手するとドグマに終わってしまうような感覚は、定型を守ることによって一旦俳句という器に受け止められ、詩として完成しているのではないか。

2

   花過の海老の素揚にさつとしほ

   冬晴や木の実を包むチョコレート


一句目。鮮やかに海老の色彩(そして背後にある桜の花びらの色)が立ち上がる。サ行音の響きが心地よく、春の季感にも合っているように思う。二句目。「ロッテ・アーモンドチョコレート」のようなものか。描き方としてはモノとモノを単純にとり合わせただけなのだが、「冬晴」によってどこかそれに唇を当てた時の冷たさまでも思いたい。
食べ物の句は美味しく詠め、とよく言われる。その原点に立ち返ると、いかに掲句がそれを忠実に実行しているか分かるだろう。措辞は簡単にも関わらず、景を読み取る上で情報不足ということは決してない。やや破綻がない作りではあるものの、言葉の平易さが言葉以上の世界を読み手に提示してくれる、という一種の伝統的な俳句のチカラが生かされていると僕は思う。


ここまで、二章に分けてそれぞれ少し違った詠みぶりの句を上げてみた。一抹の暗さを持ち合わせた心情句・あっけらかんとした詠みぶりの食の句、毛色は違うけれども両者に共通しているのは、素材が身近にあるということ、そして俳句という「型」のチカラを生かして(その伝統的な決まりを駆使して)描いているということではないか(このような形式への信頼は、ディベートでの議論のしやすさ故に定型を重視する傾向にある「俳句甲子園」という大会の出身者ということも関係しているのかもしれない)。
把握の独自性を堅実な定型という足取りによって支えているように、言い換えるならば現代的な視点を上手に伝統に沿わせているように、僕には思われるのである。


(注)句は邑書林「新撰21」による。ルビも同書に従った。


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