【週刊俳句時評 第19回】
古舘曹人――「夏草」の幕引き役を務めた「没蹤跡」の人
関悦史
去る10月28日に俳人の古舘曹人が亡くなった。老衰、享年90歳。ただし新聞に発表されたのはその3週間後、近親者による密葬が済んだ後の11月20日だった。日本経済新聞のみは、元太平洋興発副社長・古舘六郎氏として訃報を扱っている。
この古舘曹人の訃報に関して、ある人から、俳壇からの反応が思いのほか鈍いという声を聞いた。私も句集を何冊か読んではいたものの、あまり明確な印象を持っていた俳人ではなかったので、これを機に、古舘曹人『乃木坂縦横』(富士見書房)と、聞き手=黒田杏子『証言・昭和の俳句 上』(角川選書)の2冊を頼りにその事跡をたどってみることにした。
この訃報があまり強いインパクトを持って受け止められなかったのには理由がある。
古舘曹人には『ノサップ岬』(1958年)、『海峡』(1964年)、『能登の蛙』(1971年)、『砂の音』(1978年)、『樹下石上』(1983年)『青亭』(1989年)、『繍線菊(しもつけ)』(1994年)という7冊の句集と、その他に選句集『日本海歳時記』(1999年)があるのだが、94年の『繍線菊(しもつけ)』を最後に、自らの意志により、句作をきっぱり絶ってしまったのだ。
評論と回想的エッセイをまとめた『乃木坂縦横』を読むと、若い頃は微塵の興味もなかったという『葉隠』への晩年の急速な傾倒、痕跡を残さない生き方を指す「没蹤跡(蹤跡なし)」へのこだわり等、きれいに終わらせることへの意識が本のあちこちから異様なほどに強く感じられる。最期まで現役を目指すというのとは対極の美意識があったようである。
俳壇史的な事跡としては、興味がなかったという俳人協会に引き入れられ、晩年の角川源義の熱意に押されて創設期の俳句文学館運営に関わり、草間時彦、松崎鉄之介、有働亨らと図って募金を成功させたということもあるが、中心となるのは何と言っても山口青邨の「夏草」を引き継ぎ、終わらせたときの働きだろう。
病床の青邨から後事を託された曹人は、師の意を体してその代理を務め、青邨の没後は高弟たちに別々の主宰誌を持っての巣別れ、発展的解消を促し、自身も「夏草」は継承せず、青邨一代の雑誌として終刊に持ち込むのである。
少々長い引用になるが、このときの経緯を本人の言葉で紹介しておく。
《青邨が病に倒れて「夏草」の選句ができなくなったのは、昭和六十三年の七月ごろでした。青邨はいつもこういうことを私に言っていました。「『ホトトギス』は虚子のものなんだ。間違いなく、虚子個人のものなんだ。だから本来だったら、虚子が亡くなったら『ホトトギス』はやめたほうがいいのだ。しかし、やめられなかったら、『ホトトギス』という名前を消して他のものにして残せばいい」というのが、青邨が私に言った言葉です。
このことが、私の頭の中に強く残っていました。青邨の最期はどういう最期であったかを説明しますと、七月になったある日、青邨が私を呼びました。私の顔をみたとたん安心したのか昏々と眠り出したのです。これは大変というので、息子さんの梅太郎さんが傍にいって「曹人さんが見えています。お父さん何か用事があるんでしょう」と言ったんです。そうしたら、もごもごと言うけれども、歯がとってあるので言葉がはっきりしない。それではというので、色紙を胸の前に立てて、梅太郎さんと私が端を持って、マジックインクで書いてもらったのです。
何を青邨は書いたかと言いますと「以心伝心会へばおのづから通ずる」と書いたのです。いまも残っていますが、はっきりした字でしたよ。「以心伝心会へばおのづから通ずる」――これは一つの熟語です。私は「わかりました」と先生に言ったら、先生も安心して眠りにつきました。
それはどういう意味かと言いますと、「お前はわかっているだろう、俺の言おうとしていることは」ということなんです。たしかに私にはわかっていたのです。先生が病気になると新聞の選句をやったり、いろんなところの選をやっている。「いつもの通り曹人、お前が俺の代行でやってくれないか」ということなんですね。それを青邨は、青邨らしくちょっと気取って、「以心伝心会へばおのづから通ずる」というのですね。私はもちろんわかっているから、「わかりました」と言って代選を始めました。もちろん影武者ですよ。私の名前を出さない。そうしたら、編集長の斎藤夏風が「曹人さん、それよりも『夏草』は半年以上も遅刊していて大変なんだ。この際だからあなたの代選で『夏草』の雑詠選をやったらどうですか」と。しかし、私は首を横に振ったんです。『夏草』の選は別だ」と。
そうしたら、一週間か二週間か経ってから青邨が――気分がよかったんでしょうね――夏風編集長を呼んで「雑詠選をやる」という。そこで投句用紙を何枚か手に持って夏風が一句詠みあげると、青邨は、よければ「うん」と頷くし、悪ければ首を横に振る。そういうことで選句を始めたんです。しかしそれも、十枚か二十枚足らずのうちにできなくなった。必死にやっているのでしょうが、本当に「刀折れ矢尽きる」という状態なんです。そしてついに、「あとは曹人君にやってもらえ」と言った。そして昭和六十三年の暮れの十五日、青邨が亡くなるわけです。
青邨がそういうふうに、最期まで、死ぬぎりぎりまで選句を続けたとはどういうことかと言いますと、さきほど「ホトトギス」のことを言いましたが、「青邨一代論」なんです。俳句の結社は一代だから、誰が後を継げとか「どうせよ」というのは一切青邨の頭の中になかった。これは、私には前からよくわかっていたものですから、葬儀委員長を引き受けたとき「夏草」を廃刊にする腹は決まっていました。そして葬式が終わってから、遺族の梅太郎さんのところにいって、「後をどうされますか。あなたの好きなようにおやりになったらいいと思う」と言ったら、梅太郎さんもはっきりしていて、「私は俳句はできません。曹人さんならどうされますか」と言うから、「私は結社を持ちません。『夏草』は廃刊にしたらどうでしょう。しかし、それには時間かかかります。だから、私に任せてください」というのが、梅太郎さんと私の打ち合わせであった。
しかし、「夏草」をしばらく私が預かるが、私は主宰者じゃないので、私を「先生」と呼ぶな。先生は山口青邨のことだ。主宰も山口青邨である。だから、私は「夏草」代表にしなさいといって、代表という言葉を使ったのです。
それから大変なことになるのです。結社というのは同人制なんですが、青邨の場合は最初から同人というのをあまり重視しなかった。四ヶ月に一度ぐらい同人欄に掲載するという程度であって、徹底して雑詠選を中心にしたんです。そういうことで、私が引き継いでから、同人欄を完全に復活して、雑詠欄の同人の投句は自由にしたのです。そして、私は雑詠欄で、徹底した添削をしはじめたんです。だから、同人の中でも勇気ある人は雑詠選に出したのです。しかし同人と一般会員は選句の上でその差別を一切廃しました。先生はもう九十歳になっているわけですから、会員の俳句が緩んでくるのは当然なことで、それを引き締めるのが大変でした。これも、もっと説明するといいんですけれども省略します。
そういう具合にして、「夏草」を終刊にしていくわけです。。そして有馬朗人とか小原啄葉とか斎藤夏風とか黒田杏子とか、九つの「夏草」系統の俳誌があって、それぞれ会員をそっちへ移し替えて平成三年の五月に終刊にする。ちょうど青邨の百年祭のときでしたが、「夏草」を切り捨てたわけです。これは、切り捨てなんです。青邨が亡くなってから、私の心に青邨のためにとか同人のためにやるという気持ちは、寸毫もなかった。そうじゃなくて、残った人たちの中で、今後「夏草」の革新に力を出そうとする人たちのために、私は力を貸そうと考えました。そうして三年後、終刊と同時に代表もやめて、私は結社から離れたわけです。》(「死ぬことと生きること」『乃木坂縦横』157-160頁)
師の影武者として新聞等の代選を務めるということの是非は結社文化に疎い当方にははかりかねるが、緊急時にあたっての師の意思を体した行動であり、「夏草」の雑詠欄は別と峻拒するなど心情的、倫理的に超えられない一線の周囲をめぐる動きであったことが窺われる。
こうした曹人の相続財産管理人的サポートの中で、「夏草」は以下の錚々たる雑誌を輩出し、幕を引いた。
小原啄葉主宰「樹氷」(盛岡)
秋山花笠主宰「夏野」(東京)
小林波留主宰「幹」(山梨)
関口碧主宰「若楓」(宇都宮、季刊)(以上4誌、青邨存命中に師の賛同を得て創刊)
黒田杏子主宰「藍生」(東京)
深見けん二主宰「F氏の会」(埼玉)
鳥羽とほる主宰「草の実」(松本)
有馬朗人主宰「天為」(東京)
斎藤夏風主宰「屋根」(東京)(以上5誌、青邨没後創刊)
94年に俳句を止めた後の曹人は、97年、自身の先祖にまつわる小説『木屋利右衛門』(講談社出版サービスセンター)を著し、続いて小説『波多三河守』に着手していたというが、この作品については完成したかどうかわからない(木屋利右衛門と古舘曹人の関わりについては「西ノ木屋の歴史」なるページhttp://ww21.tiki.ne.jp/~yamauti/nisinokiya.htmに記述がある。波多三河守は秀吉の時代の武将で、曹人の父が退職後復興に関わった唐津焼を興すのに功のあった人物らしい)。
『証言・昭和の俳句 上』には取り上げられた俳人それぞれの自選50句が載っている。
古舘曹人の50句から15句ほど引く。
虫の戸を叩けば妻の灯がともる 『ノサップ岬』
蟷螂の一枚の屍のうすみどり
灯台の裏窓一本の葱吊す
海鞘をむく鬼畜の手して女なり 『海峡』
苺つぶす舌を平に日本海 『能登の蛙』
はたはたの夕日にもどる砂の上 『砂の音』
滝の壁鎧のごとく濡れにけり
一燈に二人はさびし蕪鮓 『樹下石上』
鉾の稚児帝のごとく抱かれけり
京を出てすでに山陰線の枇杷 『青亭』
十月の大徳寺麩を一つまみ 『繍線菊』
畳から柱の立ちし大暑かな
市ヶ谷に虹の大きな人出かな
雁の声直哉の一間一間かな
繍線菊やあの世に詫びにゆくつもり
最後の《繍線菊やあの世に詫びにゆくつもり》は先立った夫人に向けての句である。
率直に言って俳壇的に周知の有名句というものは多くはない。「没蹤跡」、きれいに終わらせるということへの完全主義的こだわりは裏返しの我執ということでもあるのかもしれず、正眼の構えの大づかみな把握が決まって対象の厚みが出るということと、それが壁のように句の前面を覆ってしまい、余白から何かが香りたつような生動感が出にくいということとが表裏一体になっているところがあると感じられる。《滝の壁鎧のごとく濡れにけり》《畳から柱の立ちし大暑かな》等のモチーフが視界全面を覆う句においても、そこからほんのわずかに漏れ出す、何やら不気味な、意志的なものの気配はあるが、その気配の捉え方が理知的に過ぎるとでもいうべきだろうか。こうした正眼の構えから来る潔さと硬さは、青邨の系譜の作家たちにある程度共通する特徴であるような気もする。
なお古舘曹人死去後、古舘副社長のもとで太平洋興発の入社式を迎えたという男性のブログhttp://blog.goo.ne.jp/hikorisatoh/e/c1b354237092ad6a490496e3e565db63を見つけた。労使交渉に関わりが深く、経営者になることを好んではいなかった曹人古舘六郎の一面が垣間見られる。
このブログによると前出の2点とは別に「抗の門番」なるドキュメンタリー的な企業小説もあるらしいのだが、これについては『証言・昭和の俳句 上』の略年譜に記載がなく、国会図書館を検索しても見当たらない。詳細は不明のままである。
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2010-12-05
【週刊俳句時評 第19回】関悦史
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