2011-01-30

【柳誌を読む】『バックストローク』第33号 西原天気

【柳誌を読む】
「難解」をめぐる権力闘争
『バックストローク』第33号……西原天気


川柳誌『バックストローク』第33号(2011年1月25日)に、関悦史が「「難解」な川柳が読みたい」(p48-)を寄稿。「難解」が異端視される川柳・俳句共通の事情を扱う。

(…)川柳作家たちの中にも川柳はわかりやすくなければならないという通念を根強く持つ人たちが少なからずおり、詩的テクストとしての高度化を目指す句に対し違和感を表明する。そしてそれがしばしば鑑賞者個人の読解力が及ばないというだけにとどまらず、こういうものは川柳(俳句)の本道ではないというセンタリング、価値判断に直結することになる。/この場合「難解」だという表明、難解さの指弾とそれへの反論はひとつの権力闘争なのだ。川柳は「文学」になりたいのかなりたくないのかといいう、ジャンル内の無意識的相克が発現する場に立ちあらわれる言葉が「難解」の一語なのである。
この「相克」は、あとに関が挙げるエートス=「信仰を基礎づける内面化された行動規範」(関)による「分離」と関連づければ、かなり根の深い「権力闘争」ということになる。
俳句においては季語の有無がエートスによる分離を形成しやすいが、川柳の場合は詠む対象が哲学的、詩的分節にまで及ぶとき異端視され、反発を引き起こしやすいのではないか。
当記事では、この「難解」といういわばスティグマ(烙印かつ聖痕 ※筆者の語。為念)から作者の「個」の問題へと論が展開される。

途中、エイゼンシュタインのモンタージュ理論と川柳における自己の内在性(という要素)を対照させるあたり、私にはわかりづらかったが(川柳作品を多く読んだ直後、関が直感的につかんだ対照のようにも思え、それだから説明不足になっているのかもしれない)、俳句愛好者にとっても興味深い内容。記事の全体を要約することはしないので、関心のある方はご入手あるいはなんらかの方法でご一読を(末尾にバックストロークのサイトを記しておきます)。



ところで、難解な川柳ということで、私自身、ずいぶん前から強く抱いている思いというか疑問がある。

難解な句と「誰にもわかる」句のあいだの溝は、俳句にもある。しかし、俳句の場合、その両極は、溝があるとはいえ、まだ地続きのようにも思える。いわゆる前衛的な作風(関は九堂夜想を例として挙げている)の句群と、例えば「おーいお茶」俳句とは、細い線ではあっても、まだ繋がりを見出せるように思うのだ。溝はあっても、決定的に断絶しているわけではない。

ところが、川柳の場合、この「バックストローク」誌に掲載された川柳と、例えばサラリーマン川柳とのあいだには、俳句の場合よりもはるかに深くて広い溝があるように思える。

これは私の無知や無理解によるものかもしれないが、川柳と俳句の「〔難解〕による分離」の程度には大きな差があるような気がしている。

これはいったい何なのか? 疑問が解けたわけではないが、ヒントになるような記事が、同号にあった。

堺利彦川柳の大勢とその問題点 現代川柳展望」(p53-)がそれだ。

前者は、いわゆるメジャーな発行物(俳句で言えば俳句総合誌を持つ出版社が発行する年鑑・アンソロジーのたぐいか)である『現代川柳展望』に掲出された句、また川柳大会の受賞句を取り上げ、そこでは道句(教訓・諺に堕した句)、「ごもっとも川柳」「膝ポン川柳」が「大勢」を占めているという。

なるほど、ここにある「大勢」は、私の知っている「サラリーマン川柳」とは、はっきりと地続きである。それならば、「難解な川柳」だけが、川柳全体から隔絶し、離れ小島のように存在すると見ればいいのか。

このざっくりとした把握がまちがっていなければ、他人事ながらすこし絶望的な気分を味わう。といっても、俳句の場合は、どうなのだろう。俳句の「大勢」は、「おーいお茶」寄りなのか、それとも(少々違和感は感じても)前衛的で難解な句のサイドに立つものなのか。私としては、後者であってほしいが、不安は拭えない。

季語の有無や五七五かそうでないかといった「教義」にこだわり、それをエートス(倫理)とするような考えが「大勢」のなかに存在感をもって君臨していることを考えると、(たとえ『新撰21』『超新撰21』などのアンソロジーに入ってはいても)「わからない」ならその句を異端視し、他方、「おーいお茶」俳句を、「まだ拙いけれど、われわれの側、われわれの予備軍」として親しさ・近しさをもつ人が優勢を占めてもおかしくはない。

川柳の「大勢」を垣間見て、俳句の「大勢」に思いが到るのは、私が俳句の近くにいる人間だからということで、川柳関係者にはご海容願いたい。



もうひとつ、石田柊馬詩性川柳の実質 4展望〈伝統性の現代〉」(p57-)は、対照的に、00年代の川柳を、そのルーツであるところの80年代の渡辺隆夫の仕事から照射して、興味深い。不案内な読者(私)には、それこそやや難解だが、個人の問題、テーマの喪失という点で、広く文芸に通じる。社会性を扱う部分は、先の関悦史記事の『近代文学の終り』(柄谷行人)を引いたくだりと関連するようにも思えた。

バックストローク・ウェブサイト

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