2011-02-06

〔超新撰21を読む〕 種田スガルの削除句について 外山一機

〔超新撰21を読む〕
「事件」の意味
種田スガルの削除句について……外山一機


白く白くどこまでも愛より深く祈ってる

邑書林は昨年十二月二十八日付で「『超新撰21』収録作品についてのお詫び、ならびに一句削除にともなう改訂版版行について」とする文章(島田牙城名義)を発表した。

この度刊行いたしました『超新撰21』収録の種田スガル「ザ・ヘイブン」(百句)中の<白く白くどこまでも愛より深く祈ってる>は、二〇〇〇年にリリースされたアルバムCocco「ラプンツェル」収録曲「白い狂気」(作詩:こっこ)にほぼ同じ表現がありました。邑書林は作者と協議の上、この一句を『超新撰21』より削除し、改訂版を発行いたします。こっこ氏ならびに関係各位にご迷惑をお掛けいたしましたことを深くお詫び申し上げます。また、このような事案を発生させましたことについて購読者各位にご報告し、お詫び申し上げます。
たしかに「白い狂気」には次の表現がある。

  白く白くどこまでも深く深く愛してる
  白く白くどこまでも毎日こうして祈ってる

これを表現者としての倫理の欠如として片付けるのはたやすい。でも僕はこうした作品が紛れ込んでいること、そして(決して悪意で言うのではないが)もしかしたらほかの九十九句にもそうした出自の句が他にも紛れ込んでいるのではないかと想像し驚嘆することの方が同時代の表現者としてのまっとうな反応だと思う。なぜなら種田のこの一件は、小川楓子の応募作品中に「慣用的表現の使用による他者の先行句との暗合句と認められる一句」があったこととは似て非なる「事件」であるからだ。すなわち種田は、この一件でJポップの表現がそのまま「俳句」として流通しうることを身をもって実証してくれたのである。これはたしかに大きな「事件」だ。

種田は俳句表現史的なコンテクストとほとんど無縁の地点から俳句を作っている。その作家的倫理をもって種田は現代俳句の作り手でありうる。むろん、自由律や分かち書きといった方法論、さらには(神野紗希が指摘したように)「女性性の」問題など、俳句表現史的な文脈から読みとける特徴もある(これについては僕も以前「『ファリック・マザー』の系譜」で述べた。)。けれど、種田の句のばかばかしいほどの強さはそうした地点からのみ説明できる種類のものではない。

かつて、三橋敏雄にいたって俳句表現がひとつの爛熟を迎えたとする議論があった。仮にこの議論がいまだ有効であるとするならば、「三橋敏雄」以後の俳句表現者たちは三橋敏雄と同じ轍を踏むことについて相当の覚悟を必要とするだろうし、僕にはその方向にどれだけの実りがあるのかわからない。もちろん、自らの表現行為において、言葉と形式とが極度の緊張関係の中で屹立するような完成度の高い表現を追求してゆくのは批判されるべきことではない。実際、多くの俳句の作り手が意識していること、あるいは彼らに求められていることはそのような方向性に基づく句作であると思う。ただその一方で、自明であるはずの俳句形式をいま一度問い直すことも現在を生きる僕らの仕事であろう。俳句はいつも「俳句」以外の何かを表現する形式としてあった。だが同時に俳句はいつも「俳句」自身を問い続ける形式でもあったのだ。そうした俳句の二重の使命が「花鳥諷詠」とか「社会性」とか「造型」とかいう言葉を介して語られてきたことを僕たちはすでに知っている。

種田スガルの「ザ・ヘイブン」はその表現の稚拙さにもかかわらず、いやむしろ、稚拙だからこそ「俳句とは何か」と問いかけてくる。無論、種田自身はこんなことを意図してはいないだろう。種田はあくまで素朴に「自己表現」をしたかったはずだ。ただ結果としてその「自己表現」はそれほど高度な完成度を維持してはいない。それは、ひとつには種田の用いる言葉と言葉の詩的飛躍の度合いが予定調和的であるからだろう。あるいはまた、種田が本歌取りという方法すら駆使できないほどの低いリテラシーによって「俳句」と呼びうるものを作ってしまったためであろう。しかしその「俳句」らしさの未熟ゆえに、彼女の「俳句」は僕ら「俳人」が俳句形式についてもはや良識といっていいくらいに当然のごとく身につけているリテラシーの正体を暴きたてる危険性をはらんでいる。種田の句が面白いのは、Jポップの歌詞でさえそれを俳句として詠む/読む意思が作者や読者の側にあるならば、それは「俳句」になるのだということを明らかにしてくれるからだ。換言すれば、種田の作品は「俳句」なるものがいかにして立ちあがってくるのか、その動的・共犯的なありようを僕たちに示しているのである。

そもそも俳句を作るとき僕らは何かしらの定石を踏みながら句を完成へと導いているのではなかったか。とすればその「定石」とは何か。読みの技術についてもこれと同様のことが言える。僕らはある言葉の連なりを「俳句」として読むとき、それを「俳句」として読むための方法をあまりに無自覚に活用してはいないか。換言すれば、読者にとって「俳句」とは、初めからそこにあるものではなく「俳句」として読むことによって「俳句」となるものの謂ではあるまいか。


『超新撰21』・邑書林オンラインショップ

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