2011-04-24

交差点―石原ユキオ『俳句ホステス』評― 澤田和弥

交差点―石原ユキオ『俳句ホステス』評―

澤田和弥 



灯りもない部屋で一人こと終えて、いつものように煙草をふかしていた。

ふと閃いた。「『俳句ホステス』の評を書いてみよう」と。

深い意味や何か関連性がある訳ではない。どうして今頃と思われる方もおいでだろう。申し上げたように閃きである。私は理論よりも閃きで動くタイプである。先の読めない男だと怖れられたことがある。先の見えない男だと交際を断られたこともある。

つまり、閃いたのだから書かない訳にはいかない。作者にも読者にも誠に申し訳ない理由ではあるが、どこの馬の骨とも知れない私の『俳句ホステス』評をお読みいただき、できることならば石原ユキオさんというサファイアの原石を心から愛していただきたいと思う所存である。サファイアの石言葉は「無意識下の悪意」。

もちろん嘘である。では、私の駄文をはじめさせていただきたく思う。

まず表紙である。よくも見事にパク、おっと失礼。某著書の表紙を引用しながら、自らの世界をうまく表現している。ただ心配なのは文字である。

おそらく筆で書いたものではない。擦れ具合等、筆とは思えない。では何か。そこが心配なのである。噂によると作者は以前体の一部を用いて、書をものしたらしい。今回も。そしてその一部とは。まあ、杞憂というものか。さて、次へ。

全体を通して表現しているものは「ホステス」である。

男の視線と男の喜びを己れに問い掛けながら常にそれを意識しつつ、同時に男におもねるのではない、確固とした女性であることを高らかに表現しようとしているものの、何か見ていてとてもハラハラするような不安定さに満ちている。しかしその不安定さが無意識なのか、意識的なのか、それとも天然か、それが分からない。それゆえ視線を注いでしまう。その視線を意識しつつという、まさに「ホステス」なのである。

さらに言えば「地方の一本路地を入ったところのホステス」である。香辛料としての下ネタがかなりキツめという辺りにそれを感じる。よってこの作品において、作者=話者=作中主体と安直に考えることはきわめて危険である。それは作者の思うつぼである。

この「作中主体」とは短歌や俳句においてもそうであるし、朱書きで書かれたイラストにおいてもそうである。

事実と虚構との境目を失なわせたなかから、石原さんは一つの真実を生み出した。それゆえなにゆえに『俳句ホステス』なのかと言えば、この書全体をもってして一人の「俳句ホステス」を見事に表現しているのであり、そして一流ホステスのように行き届いたサービスを作者は著書全体に施しているのである。それが『俳句ホステス』なのである。

一つ一つの作品について触れるのは読書の楽しみを奪うものであり、売れ行きを下げ、作者を路頭に迷わせてしまうかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。というほど、私はサディスティックな人間ではない。マゾである。それもかなりのマゾである。ナース姿で鏡を蹴り破る椎名林檎に惚れて以来、そのような道を歩んでいる。「初期の椎名林檎が好き」というと同志がいるのに、「『本能』のプロモーションビデオをビデオテープが伸びて、なんだかよく分からなくなるまで何度も観た」というと同志が得られないのはなぜであろうか。

話が逸れた。閑話休題。作者が著書に施したものとして、イラストの流れと短歌・俳句の流れの交差点についてだけ触れておきたく思う。例えば

にんげんは服を着ますね裸だと転んだときに痛いからです

の頁。頁中央にこの歌。歌の向かって右側に、右斜め下へ向かって流れるように「言わば、あてこすりです。」、頁左上に怒りマーク。左下には「(もしくは/やつあたり。)」と二行書きにしてやはり右斜め下に向かって流れるように記している。歌は黒のゴシック体。それ以外は朱書き。

ここから分かることは、おそらく作者の背骨は若干右に歪んでいるのだろう。そうすると行が右斜め下に流れることが多くなる。ではなくて、これだけを見た方はこの歌自体へのコメントととるだろう。

「あてこすり、やつあたりで言ってんの。何が『裸の君はステキだよ。いつまでも裸でいておくれ』だ。人間は服を着るの。裸だと転んだときに痛いですよね。分かりますかぁ~、ボク。おっさん、頭の毛、全部剃って出直してきな」というコメントと考えられる(いや、考えられない。明らかに言い過ぎた)。

しかしこのコメントは3頁前からの発言の一部なのである。

曰く「俳人を自称しておりますが」「短歌のほうが上手いって言われます。」「なので短歌を冒頭にもってきました。」「言わば、あてこすりです。(もしくはやつあたり。)」と。

これは別の頁、それも多くの頁で指摘することができる。

このように短歌・俳句作品と朱書きのコメントが別々のように進みながら、ときに直接的に、そして間接的に多くの交差点をなして、複雑に進行、または逆走、停止しているのである。

このような話題の振り方は一流のホステスに往々にして見られることである。「地方の一本路地を入ったところのホステス」と前述してしまったが、これはあくまでも表面的なこと、仮の姿である。カリの姿などと書けばきっと作者が喜ぶに違いない。この場合は「仮」のときよりも強いアクセントを「カ」に置くのが望ましい。この内面は一流ホステスのおもてなしである。奔放なようで随処に散りばめられた気遣いが真にこころにくい。

以上、かなり誉めてみた。ここで終わってしまっては、こいつは作者の気をひこうとしているだけだ、点数稼ぎだと思われても仕方がない。点数を稼いだところで何の得があるかは知らないが、とりあえず素直なことを書かせていただこうと思う。

石原さんは未完成である。これは作者が蜜柑姿で描かれていることにかけたものではない。何が未完成かと言えば、短歌、俳句、文章の安定した完成度である。

あまりにも山がありすぎる。評価とは個人的判断でしかないので、好き勝手に書かせていただくと佳いものはすこぶる佳い。とても佳い。しかしそうでないものは全く心に響かない。正直なところ「で?」となってしまう。面白さがわからない。

それは私自身の読解力と鑑賞力のなさに起因するものであることは間違いないのだが、大多数の読者(俳人に限らず、もっと広い範囲での「読者」。この本はそういう意味での読者を対象にしたものだと思う)の読解力と鑑賞力も私と似たか寄ったかであろう。そう考えればもっと磨き上げた作品のみを掲載すべきだったように思う。少なくとも「この作品を掲載する」と相談されれば私は「No」と答えるだろう。(相談されるはずなど、全くないのだが。あくまでも家庭の話。いや、仮定の話として)例えば作者には

水鳥は溺死できないぼくできる

という句がある。「週刊俳句」第1回落選展応募作「不合格通知」50句の最後の作品である。この句はとても佳い。死で詩を遊ぶことのできる人間は死を思想化できたものだけである。死を現実レベルの中でしか捉えることのできない人間にはこういった作品はつくれない。

文芸は肉体ではない。思想である。そのなかを軽やかに舞うことのできるものだけが、想像力という大いなる翼を手にすることができる。軽やかなこの一句に私はそれを感じるのである。こういった佳句を外してしまったことが残念でならない。そしてこのレベルのものばかりであればよいが、読み進めていてそうは思えなかった。その部分が玉に瑕であり、完璧と呼べない理由である。

しかし完璧でないからよいのかもしれない。例えば100点満点の皿ばかりが来るフルコースを考えていただきたい。1つ1つは確かにたいそう美味である。しかし食べ終わったときには「これでもか!これでもか!」というエゴイスティックに辟易してしまう。

コースのなかで波をつくる。もしくは一品一品に少しばかりの瑕をつける。それによって食後の満足感は100点にも200点にもなる。もしくは少しぐらい物足りない方が、また寄りたくなる。

だからこの点が作者は意識的なのか、無意識なのか、それとも天然か。そこがよくわからない。しかし男性とは不安定感に魅了される。なぜならばそこに男性は「かわいさ」を感じてしまうから。

ゆえに石原さんが築き上げたこの一書という真実はきわめて「かわいい」のである。

作者自身がどうかはまた別の機会に。また電子図書として出版されたことについても別の機会を持たせていただければと願う。

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