2011-04-17

「傘 Karakasa vol.2」を読む 山田露結

「傘 Karakasa vol.2」を読む
「俳句におけるライト・ヴァース」って何だろう。

山田露結



前回、佐藤文香を特集して話題となった「傘 Karakasa vol.1」につづく「傘 Karakasa vol.2」の特集は「ライト・ヴァース」。

ライト・ヴァース。このポップで魅力的な言葉の魔力に誘われるまま、この特集の企画が決定した。(「俳句におけるライト・ヴァース」越智友亮)

そもそも「ライト・ヴァース」ってどこから出て来た言葉なんだろうと思って、手っ取り早くネットで検索してみたら、こんな記事を見つけた。

ライト・ヴァースとは - はてなキーワード

短詩系で「ライト・ヴァース」といえば、ここに書かれているように「バブル景気の豊かな消費社会を軽やかで饒舌に詠んだ口語定型の短歌」のブームによって定着した言葉、というのが、不勉強な私の「ライト・ヴァース」に対する大雑把な認識である。

口語短歌から数十年遅れたものの、俳句におけるライト・ヴァースをやっと論じられる環境が整いつつあるのではないか。(同)

たしかに、「ライト・ヴァース短歌」というのはあっても「ライト・ヴァース俳句」という言い方はあまり聞いたことがない。とは言え現代的な生活感や風俗、素材などを口語で詠んだ作品というのは俳句の中にもかなり見られるわけで、今回の特集はそうした作品にきちんとスポットを当てて俳句の中の一ジャンルとして「ライト・ヴァース」をあらためて認識し直そうという試みなのだろうか、あるいは、今後「ライト・ヴァース」を俳句の中の新たな分野として模索していこうという提案なのだろうか。そのあたりが特集全体からはやや見えにくい印象ではある。

作品とはつねに定義に先んじて生まれるものだ。作品は作品が成立した後の世代によって論じられ、それなりの定義に括られた作品群となるのである。(同)

念のため「ライト・ヴァース」を辞書で引いてみると「ライトバース〖light verse〗内容や文学性よりも形式の妙で人を楽しませる種類の,娯楽的な詩。」(大辞林第三版)とあり、前掲サイトの記事と照らし合わせてみると、もともとW・H・オーデンが定義した「ライト・ヴァース」が日本に輸入され、短歌において独自に進化し、それを短詩系一般で「ライト・ヴァース」と呼んでいる、と解釈することは可能だろうか。

汎用的になるがゆえに、「ライト・ヴァース」という言葉に残された言葉の拘束条件は、もはや以下の二つしかない。「表現の軽さ」と「内容の軽さ」である。(同)

「ライト・ヴァース」。直訳すれば「軽い詩」。さらに、「内容や文学性よりも形式の妙で人を楽しませる種類の,娯楽的な詩。」ということから思うのは「俳句」あるいは「俳諧」はそもそもの成り立ちからして「ライト・ヴァース」的な側面を備えた文芸だったのではないだろうか、ということである。さらにそこから芭蕉が晩年にたどり着いたのは「軽み」の境地だったよなあ、と。

「【軽み】①軽く感じること。軽い気味。②俳諧用語。芭蕉が晩年に志向した,日常性の中に日常的なことばによる詩の創造の実現をめざす句体・句法・芸境のこと。かろみ。」(大辞林第三版)。

芭蕉の時代の句が口承性を伴って今もなお広く人口に膾炙されていることを思えば、今後の「俳句におけるライト・ヴァース」を考えるとき、すでに一般化してしまっている「ライト・ヴァース」の概念をわざわざ狭めて定義し直すよりは、その解釈をさらに広げてあらゆる可能性を探って行くほうがより建設的ではないかという気もするのだが。

それでは、俳句においてライト・ヴァースが成立するための条件とはどのようなものであろうか。私はそれに必要な要素として以下の二つが挙げられると思う。
一つ目は、表現における条件。口語的発想を用いたもの。
二つ目は、内容における条件。取り合わせによって季語の連想性や象徴性を用いるのではなく、季語の重量を限りなく薄めたもの。また、古典的情緒から隔たっているが、対峙もしておらず、季語を切りはなし、現代の瞬間を切り取るような姿勢によって生まれるものと言いかえられる。(同)

たとえば「文語によるライト・ヴァース」とか、無理なのかな。

口語的発想やナンセンスさを用いながら越えることのできなかった古典的情緒の世界が俳句にはある。しかし、ここへきてようやく俳句は古典的情緒と決別しつつあるのではないか。そして俳句はいよいよライト・ヴァースと呼ぶことが出来るようになる。(同)

いわゆる「ライト・ヴァース」を用いずに古典的情緒と決別する方法がないわけではないとは思う。たとえば次のような作品はどうだろうか。

受話器冷たしピザの生地うすくせよ   榮猿丸
テレビ画面端に時刻や春愁
Tシャツのタグうらがへるうなじかな


猿丸作品が詠んでいるのは紛れもなく現代の風景である。そして、そこに従来の俳句が持つ古典的情緒を見つけることは難しい。しかも彼は文語、切れ、歴史的仮名遣いを用いつつ従来の俳句的メソッドから見事に脱却しているように見えるのだがどうだろうか。つまり、「ライト・ヴァース」というのは句作におけるひとつの選択肢であって、それのみをもって「古典的情緒と決別」し得るものではないのではないか。

「俳句におけるライト・ヴァース」をどう捉えるのか。また今後、それをどう発展させて行こうとしているのか。少なくとも越智の文章からそれを読み取ることは難しかった。

二〇一〇年以後のライト・ヴァースは、この作品を追いかけるようにして作られていくだろう。そう私は考える。

起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希 『星の地図』(同)

ところで、今回の「傘 Karakasavol.2」巻頭の佐藤雄一による書き下ろし作品、そして、ロングインタビューはとても刺激的で示唆に富んだ興味深い内容だった。

実はインタビューにおける彼の言葉の中に、今後「俳句におけるライト・ヴァース」がどうあるべきかという方向性がすでに示されているのではないかという箇所があったので、いささか引用の多い文章になってしまったが、最後にその部分を引いて終わりにしたいと思う。

私は俳句とか短歌も含めて、詩歌と呼ばれているもの、これから詩歌と呼ばれうるものすべてにある種連なるようなアルゴリズムを考えたいから、もちろんらライト・ヴァースもそのアルゴリズムが機能する場所としてあるといいなと思うんですけれども。ライト・ヴァースのみに思い入れがあるというよりは「ライト・ヴァース」も元気だとよいかなといった感じですね。 (佐藤雄一 ロングインタビュー6000字)

まだ、言葉を覚えていない、あるいはあまり習熟していないがゆえに、たとえば、もしかしたらこれから五七調より強弱に慣れ親しむかもしれない方にも、自分たちの世代のことばを覚えてもらえるようなアルゴ「リズム」をもった詩というふうに考えたとき、ライト・ヴァースは魅力的ですね。それは「同じDNA」を持っているというような、共同体のなかのわかりやすさではなく、他者にひらかれたわかりやすさだと思います。(略)ちなみにいうと「俳句」「俳諧」が「五七調のDNA」などというものを持っていないはずの外国人や、遠くとおく離れた違う時代まで届くのは、この「他者にひらかれたわかりやすさ」というフィロソフィーがあるからではないかと思います。 (同)



【関連】「素人」体質(「haiku&me」2010年5月3日)


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