2011-06-26

〔超新撰21を読む〕上田信治の一句 村田 篠

〔超新撰21を読む〕
同じ高さに
上田信治の一句……村田 篠


夢のやうなバナナの当り年と聞く  上田信治

一読して、「あれ?」と思う。

楽しい事柄が詠まれているのだけれど、うまく共感することができない。その理由はかんたんで、バナナは好きだけれども、「バナナの当り年」というものを大喜びするほどにはバナナを愛していないし、バナナに思い入れもないからである。はたと膝を打って「そうそう、うれしいよね、夢のようなんだよね」と言えないからである。なんというか、バナナというのは、そんな思い入れとあまり親しいとはいえない食べ物だという気もする……もちろんこれは、勝手な決めつけだけれど。

けれども、再読三読するうち、じわじわとおかしさがやってくる。バナナの当り年だなんて、しかも、夢のようだなんて。そんな会話がかわされた、そのことの、そこはかとないおかしさ。

と、ここで、ふと、この「夢のやうな」が作者の心情ではないことに、あらためて気づく。今年は「バナナの当り年」だと誰かが言った、その人物が「夢のやうな」と形容したのだ。

俳句の中で使いづらい、使いたくない言葉というものがある。「夢のやうな」なんて、その最たるものかもしれない。けれども掲句のなかで、この言葉は陳腐ではない。誰かの発した言葉としてそのまま書かれることで、むしろ、その人物をたっぷりと想像させてくれる。「バナナの当り年」のことを夢のようだと思うような人物。そんな人物がどこかにいると考えるのは、とても楽しく、幸せなことだ。

「上と下」と題された作者の100句を通して読むと、人やものごと、外界にそそぐ作者の視線は、いつも対象と同じ高さにある。そして、言葉が無理なくていねいに置かれている。そこにはもしかしたら、作者の細心の工夫があるのかもしれない。けれど、おいそれとはそう感じさせない軽みがある。

ふところが深いのだ、と思う。

 椎茸や人に心のひとつゞつ  信治



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