【週刊俳句時評第34回】
昭和二十年ジャムおじさんの夏
「船団」第89号特集「マンガと俳句」
神野紗希
1.
先日、帰宅したときのこと。
玄関のドアの付け根の部分に、灰色のぐにゃりとしたものが挟まっていた。嚙んで吐き捨てられたガムに似ていたので、「なぜこんなところにガムが・・・」と思い、確認しようと思って近づいたら、驚いて、おのずと「ぎゃ」という声が出た。なんと、ヤモリが、ドアの隙間に挟まって、ぺしゃんこになっていたのだ。ガムに見えたのは、ヤモリだった。
ドアを開閉するときに、運悪く挟まれてしまったのだろう。屍はよく乾いていたので、彼の死から、すでにある程度の時間は経っているらしい。
このヤモリ、体の一部が挟まれたとかではなく、全体がきれいにぺしゃんこになっているのだ。まるで、よくできた押し花のようである。おそらく、苦しむ時間はなく、一瞬にして昇天したと思われる。マンガでは、車に轢かれた人が、ぺしゃんこになってぺらぺらになって、空中を舞ったりするシーンがデフォルトだが、ヤモリも、まるで漫画の中の出来事のように、きれいなヤモリの形をして、ぺしゃんこになっていた。大変かわいそうな運命なのだが、尻尾がきゅっと曲がっているあたり、ちょっとキュートでもある。
2.
そんな、死んだヤモリをキュートに感じてしまうというおかしな心性に、ふと、大塚英志の『アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題』という本を思い出した。
例えばディズニーアニメに於いて、キャラクターが高所から転落したとき、次のシーンでは包帯と松葉杖で登場するものの、さらに、次の場面ではそれらは捨て去られている、というシチュエーションに端的に見られるように、古典的まんがのキャラクターの身体性もまた、苦痛からは解放されている。(略)キャラクターが車に轢かれるなどして、紙のように文字通り平面的になっても死んだり骨折したりするどころか、次のシーンでは平然と元に戻っているというのは、まんが表現に於ける「平面性」ないしは「記号性」によって可能となる表現方法である。つまり、古典的まんがのキャラクターは、内面に於いても身体に於いても本来、傷つかない存在なのである。(『アトムの命題』角川文庫 2009年9月)「平面性」とは、スイスの昔話研究家マックス・リュティが、メルヘンの特性として指摘した概念だ。たとえばメルヘンの中で、人物の内面や人格といった心の領域における「奥行き」は語られず、ただ線的な物語の進行の中で、キャラクターはおのおのの役割(圧倒的な善や悪など)を担う存在である、ということを指している。マンガであれば、たとえば「アンパンマン」において、バイキンマンがいきなり「なぜ僕はこんな悪いことをしているんだろう・・・僕はこれでいいのだろうか・・・」と自問自答をはじめることはない。このような場合、たいてい、キャラクターは、物語に奉仕する記号のような役割を果たしている。アンパンマンは「善」を表し、バイキンマンは「悪」を表す、というように。
大塚の論は、手塚が、戦争というリアリスティックな体験を経て、マンガのキャラクターに、リアルに傷つき死にゆく身体を与えた瞬間、「戦後まんが」が発生したのだ、という方向に進んでゆくのだが、戦後の手塚マンガにも、しばしば、ひげおやじその他の登場人物が、車に轢かれてぺしゃんこになっても、北極に放り出されてキンキンに凍ってしまっても、死なないことがある。そうしたマンガ的な表現に、小さなころから慣れ親しんできた私には、ヤモリの死という圧倒的な現実を前にして、ただヤモリがマンガに出てくる表現らしく死んでいるからという一点のみによって、死への畏怖よりも、キュートという印象を抱いてしまった。なにものであろうと、死をキュートだと思ってしまうなんて、皮肉である。現実が、マンガ的価値観に浸蝕されている。
3.
「船団」第89号(船団の会2011年6月1日発行)の特集は「マンガと俳句」。「船団」が届く前日に、このようなヤモリ体験をしたものだから、なおさら、「マンガと俳句」というタイトルに興味をもった。ときの総理がマンガ好きを公言し、通勤電車に乗ると、若い女性から定年間際風のサラリーマンまで、人目をはばからずにマンガをひろげる国、日本。そんな場所におけるマンガ的価値観の浸蝕が、どう語られるのだろう。
加えて、マンガも俳句も、もとはサブカルチャーだという共通点をもつ。メインカルチャーの和歌に対する俳句、文学に対するマンガ。しかし現在では、俳句は国家の伝統を体現する美しい日本語として認知されようとしているし、マンガも“クールジャパン”政策をはじめとする世界への日本アピールの即戦力として、いまや日本文化の中心的存在に位置づけられようとしている。
表現技法からも語れるだろう。たとえば、ひとつのコマにどのくらいの情報を書きこむのか(背景を緻密に描くマンガ家もいれば、極力人物のみを描くマンガ家もいる)という点で、各作家の俳句の創作法との共通点を探るとか、一句の気息(たとえば「夏芝居監者某出てすぐ死 小澤實」など)を四コマ漫画のギャグのオチの構造と並べて考えてみるとか、評論にはなりにくいが、マンガ特有の技法を俳句に活かす契機になる文章も書けそうだ。
4.
雑誌を開いてみればなんてことはない、実際の特集は、マンガを素材にして俳句を詠んでみようというたわいもないものだった。吟行にいって神社仏閣を素材に詠むのと変わらない。実際、「明治大学マンガミュージアム」や「京都国際マンガミュージアム」に吟行した記録も掲載されている。ある時期、黛まどか率いる「ヘップバーン」が、TUBEや広瀬香美といった季節感のある歌手を季語にしようとして、積極的に俳句に詠み込んでいたが、そのノリに近いものがある。twitter上でも #otahaiku というハッシュタグがあり、マンガやアニメの内容を俳句に移植する遊びが繰り広げられているが、これとほぼ同じだ。エッセイ以外には特に評論や文章もなく、物足りない思いになった。もちろん、私が勝手に期待しただけで、「船団」編集部は、はじめから軽い気持ちで楽しい特集をしようとしたのだろう。
奮い立て明日のジョーのように、春 山本たくや
夏銀河メーテル待っているつもり 久留島元
春の夢何も出さないドラえもん 津田このみ
天高しラーメンお代り小池さん 岡清秀
バカボンのママ鞦韆に触れて夜 若林武史
いつだってまるこはまるこ明易し 金成愛
この特集で作られた句をいくつか引いた。素材となっているマンガは、なつかしいものばかりである。「あしたのジョー」「銀河鉄道999」「ゴルゴ13」「ルパン三世」「ドラえもん」「オバQ」「ハレンチ学園」「天才バカボン」「ベルサイユのばら」・・・。キャラクターを句に詠み込む場合、ある程度大衆に認知されたものでなければ通じない、という配慮がはたらいているのだろうか。なつかしいが、それにしても、今この時代の「マンガと俳句」のラインナップにしては、時代遅れの感が否めない。マンガって、「あしたのジョー」どまりじゃない。
特集中、ゆにえす氏が「マンガというジャンルは、いつも時代とがっぷり四つに組み合っています(略)何百句読もうと(いや、そんなに読まんけど)、今がどんな時代なのかさっぱりわからない。このヒト(俳人)の家ってテレビないんじゃない?ひょっとしてコンビニって行ったことない?」と、現在の俳句状況を揶揄しているが、今回の「マンガと俳句」特集で、その批判が、そのまま同じ特集の作品群へと向けられたものになっているのは、皮肉なことだ。
5.
いや、「どんな時代なのかさっぱりわからない」ということもない。むしろ、「なつかしい」ものに惹かれるという心性が現代である、ということもいえる。最近見かけた、マンガを素材にした俳句というと、これだろう。
かつてラララ科学の子たり青写真 小川軽舟
「ラララ科学の子」は、鉄腕アトムがアニメ化されたときの、主題歌の一節だ。作詞は谷川俊太郎。
空をこえて ラララ
星のかなた
ゆくぞ アトム
ジェットのかぎり
心やさしい ラララ
科学の子
十万馬力だ
鉄腕アトム
「青写真」は冬の季語で、いわゆる日光写真を指す。科学雑誌の付録によく付いてくるアレだ。日光の力で、徐々に画像が浮かび上がってくる不思議を体験した思い出は、たいていの読者のなつかしさを呼び起こす。「ラララ科学の子」は、鉄腕アトムの主題歌の一節でありながら、季語「青写真」と取り合わせられることで、戦前から数えて90年の発行年数をほこる、子供向けの科学雑誌「子どもの科学」(誠文堂)を想起させる。実際、この「子どもの科学」で、青写真(日光写真)が付録となることも、少なくなかったようだ。
「鉄腕アトム」「子どもの科学」「青写真」といった、おそらく作者の子ども時代の思い出と密接に関わっているモノたちが、「かつて」という時間の経過を示す言葉で括られ、「青写真」という、しばしば「人生の青写真」などという言い方で将来設計をも示唆する言葉で締められている。複層的に関わり合う言葉たちが、一体となって、一人の人間の思い出を体現しているのである。
アンソロジー『超新撰21』(邑書林)の、小川軽舟100句のタイトル「ラララ」は、この句からとられている。また、そのミニエッセイに、小川が「俳句は何かを伝えるのではなく、読者に何かを思い出させるのだ、という考えが私の中で年々濃くなっている。それにはまず、目の前の現実も含めて、作者がきちんと思い出すことである」と書いていることからも、「ラララ」句の主題は、「思い出」であると考えていいだろう。
6.
まさに、The昭和という印象の句だ。そして、船団の特集のマンガの句からも、この昭和の匂いがした。
宇野常寛は、『ゼロ年代の想像力』(早川書房 2008年)において、ゼロ年代に入ってからの昭和ノスタルジーブームを指摘し、映画の『69』(2004)、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)、『パッチギ!』(2005)、『フラガール』(2006)、テレビドラマの『白い巨塔』(2003)、『華麗なる一族』(2007)などの山崎豊子リバイバルなどの、一連の現象を考察している(『ゼロ年代の想像力』内「昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー」)。「昭和ノスタルジー作品群は、言ってみればゼロ年代だからこそ流行した」という宇野は、昭和三十年代的な共同性の息苦しさ、貧困や暴力性を隠ぺいした上で、昭和をまるでユートピアのようにつくりあげる作品群を、「安全に痛い」当事者性の欠如したものと分析している。この昭和ノスタルジーブームは現在も続いているという実感があって、去年、圧倒的な人気を誇った、NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」のヒットなどは、まさにこの延長線上にあるだろう。
小川の句が、そんな昭和ノスタルジーの心性のそのものを、自らを通して具現化しているのに対し、船団の句のほとんどは、昭和ノスタルジーにひたる心性から作られている。言語表現としての緻密さという点のみならず、句自身が、自らの孕んでいる昭和ノスタルジーについて自覚的であるかどうかという点で、小川の句と船団の今回の句には、大きな差異がある。
7.
さて、最後に。さきほど、素材とするマンガのラインナップが古いと批判したが、ちょっと言葉足らずだった。なつかしいマンガを素材にするのが悪いわけではない。なつかしいマンガを、なつかしいものとして、そのまま順説的に句にしているところがつまらないのだ。
たとえば、山本たくやの「奮い立て明日のジョーのように、春」。まるで、桜という季語を、美しいものとして、従来のイメージ通りそのまま詠むように、明日のジョーの世界観を、そのまま引き継いで句にしている。ここには批評性がない。「明日のジョー」という作品に感動できなければ、この句にも感動できない。久留島元の「夏銀河メーテル待っているつもり」も同じだ。「待っているつもり」という表現に個性がないので、この文体の中で「夏銀河」と「メーテル」の取り合わせが、いくらでも取り換え可能となっている。「リング上力石待っているつもり」「屋上に綾波待っているつもり」「飴舐めて月(ライト)を待っているつもり」「籐椅子にコエムシ待っているつもり」「夏欅ミカサを待っているつもり」・・・。久留島の句も、一句の魅力の多くを「メーテル」というキャラクターの魅力に頼っているところが弱い。
津田このみの「春の夢何も出さないドラえもん」は、マンガの中では、しぶっても必ず何か道具を出してくれるドラえもんの設定(そうしないとストーリーが始まらない)に対して、「何も出さないドラえもん」の役立たず感を描き足したところに面白さがあるが、「春の夢」を取り合わせたのでは夢オチ・出オチである。若林武史の「バカボンのママ鞦韆に触れて夜」は、普段はキャラクターとして「平面性」を発揮し、奥行きを持たないバカボンのママに、まるで悩んで思索しているかのような夜の時間を与えている。しかし、ここで、普段なじみのある語「ぶらんこ」ではなく、いまや俳句の世界でしか聞かない「鞦韆」という語を使ったことで、バカボンのママにせっかく付与したリアルが、遠ざかってしまった印象がある。
8.
そんな中で、特集の芳野ヒロユキの一連の作品は、唯一、マンガと昭和とを意識的に結びつけ、そのどちらをも相対化させたものだった。
鯨肉をほおばるバイキンマンの冬
三月の防空壕のドキンちゃん
八月のピカをさえぎるアンパンマン
昭和二十年ジャムおじさんの夏
敗戦日から待ちぼうけバタコさん
新米と交換アンパンマンの顔
これらの句は、アンパンマンに出てくる、バイキンマン、ドキンちゃん、アンパンマン、ジャムおじさん、バタコさんといった登場人物を、第二次世界大戦前後の日本に配置している。不自然なまでに明るいアンパンマンのキャラクター設定は、しかし戦争を経由した昭和の生んだものでもある。ここでは、アンパンマンの明るさに、戦後日本のリアルな実体をぶつけることで、マンガやキャラクターのもつ「平面性」が、批評的に炙り出されている。また、逆に、アンパンマンたちを配置することで、戦争や昭和という時代に対する、現代からのアイロニーを感じる。
これらの句に登場する昭和に、ノスタルジーを感じる人はいまい。いびつに見えるが、しかし案外、このいびつさこそが「つくられた昭和」ではなく「リアルな昭和」のようにも思える。少なくとも、昭和をほぼ知らない私にとっては、映画に出てくる昭和20年の風景より、ジャムおじさんやバタコさんが途方に暮れている昭和20年の風景のほうが、切実にリアルな感情を呼び起こされる。それは、私が昭和を知らないからこそ、私と同じくそこに実際には生きていなかったバタコさんやジャムおじさんの立ちつくしに、共感できるということなのかもしれない。
アニメーションでは、バイキンマンやドキンちゃんは、悪事をはたらいて最後にこらしめられるわけだが、二人が本当に悪人のようには見えず、いたずらっこのようにかわいらしさを残して描かれている。しかし、これらの句では、二人とも全然かわいくない。昭和の日本の食に欠かせなかったものでもあり、現在は世界から非難の対象にもなり微妙な立場に置かれている鯨肉。それをむさぼり食うバイキンマンは、まさに寒々しく暗い存在だ。防空壕のドキンちゃんは、まさか防空頭巾をかぶっているだろうか。そもそもが、「パン」という、西洋的な素材をもとにしたマンガである。それと日本の昭和とのミスマッチが、明治から昭和にかけて西洋とのいびつな影響関係を続けてきた日本のありようそのものでもある。
八月の句。アンパンマンは、どんな困難が起きても、最後はそれを解決してくれるスーパーヒーローだが、さて彼に、あの原爆から日本を守る力があっただろうか。そもそも、アンパンマンの牧歌的な世界では、原爆のような深刻な問題は起こらない。「八月のピカ」をさえぎることのできるアンパンマンがいたとしたら、相当にカリカチュアライズされている。「タイムボカンシリーズ」のアニメ「ヤッターマン」が、毎回、最後に敵を倒すシーンで、キノコ雲を想起させる大煙を上げるのをカリカチュアライズした、村上隆の現代美術の試みにも、通じるところがある。
泣いている子どもやおなかをすかせて困っている人を見つけたら、アンパンマンが善意で差し出す顔。その本来善意の提供物である「アンパンマンの顔」を、「新米と交換」するという。本来の目的とは違う実利的な目的で、アンパンマンの顔を差し出すことで、そこにアイロニーが生まれる。加えて、米と並べられることで、アンパンマンの顔はパンなのだという、妙にリアルな物質感も立ちあがってくる。ギブアンドテイクの正しい市場原理にのっとっているのはこの句の状況のほうなのだが、新米と引き替えに差し出されたアンパンマンの笑顔の空しさが、脳裏から離れない。
増田こうすけ作「ギャグマンガ日和」というマンガがある。歴史的偉人や有名人をキャラクターに起用したり、名作をパロディしたりする、一話完結型のギャグ漫画だ。中に、芭蕉と曾良の「奥の細道」の道程を、ギャグ漫画仕立てに仕上げたバージョンがある。芭蕉は頼りないおじいさん、曾良はイケメンでどS、芭蕉にいつもきつくあたって珍道中を繰り広げるという設定である。俳句の伝統のおおもとにいる芭蕉を掴まえて、どたばたのギャグに書き変えているこのアニメは、見ていて痛快だ。
俳句を揶揄する「ギャグ漫画日和」。俳句も「マンガの表現から盗みたい」と後続に回るような姿勢からもう一歩踏み込んで、たとえば芳野の作品がアイロニーをもってマンガや昭和を相対化したように、素材の価値を作品が超えていかなければ、扱う意味がない。
(了)
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1 comments:
拙句をとりあげていただき、ありがとうございました。
じっくり考えていたら一ヶ月以上かかってしまいましたが、指摘された問題点について、ブログで考察しました。ご覧頂ければ幸いです。
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