2012-01-29

〔週刊俳句時評57〕「中央」と「地方」について考える 五十嵐秀彦

〔週刊俳句時評57〕
「中央」と「地方」について考える

五十嵐秀彦


俳句にかかわってきて、数年前からなにかしら違和感のようなギャップのようなものを感じるときがある。その正体が何なのか、これまでわからずにきた。いや、いまもわかっちゃいないのかもしれない。ただ、今月の時評という場で「わからない」ことは何なのかを考えてみたいと思った。

実は昨年8月から北海道新聞の文化欄で月に一回「道内文学(俳句)時評」というものを担当することになった。そんなわけでこの半年間、「北海道内の俳句」というものを考え続けてきた。「中央の時評は別の人が担当しますから」と新聞社の方に言われているので、私はあくまで道内というジャンルを取り上げて時評を書くわけである。

まずはそこから少しとまどいがあった。ここで、新聞社側から見て明らかなことは、「中央」と「地方」というものがあり、それは区別して論じられるものだということである。そのとき、私は今まで「中央」「地方」ということを真剣に考えていなかったことに気付いた。

「地方」の文芸状況について書いてくれというのが要求なわけだから、私は正直困ったのである。「地方」とはなにかということを考えたことがなかったからだ。

しかし昨年の8月から月1回執筆し、今月で6回目を書いてきた。頭の中からミシミシと音が聞こえてくるほどの違和感をおぼえながらの執筆。書くのが嫌だと言っているのではない。何度も言うが「地方」がわからないのである。「地方」がわからないということは、「中央」がわからないということと同義であるのは当然だ。今の日本で、「中央」とは?「地方」とは?

時代はまさに、昨年の大震災を経て東京という「中央」と東北という「地方」との構造のグロテスクな素顔がむき出しになった状況にある。文芸における「中央」と「地方」の意味を考えることも、あるいは時代の風なのかもしれない。

過去において中央というのは常に東京の代名詞であった。出版もそこに集中しているわけだから、いきおい文芸の中心も東京ということであったわけで、それは現在もなお表向きでは変化していないように見える。

もう少し俳句の世界の話で考えてみれば、俳句総合誌などは「中央」の象徴的存在であったはずだ。しかし、その「中央」は今の状況の中で事実上の中央ではなくなっているのではないか。そうなった経過を次のようにとらえることができるように私は考えている。

角川の『俳句』、富士見書房の『俳句研究』、本阿弥書店の『俳壇』、文學の森社の『俳句界』などが総合誌としてあったわけだが、かつて「俳句ブーム」時代に大量に発生した初心者を読者として、俳句入門的企画を慢性的に続ける状況を自ら作ってしまい、本来の読者層に逃げられ、次に高齢化社会ということを読み違い高齢者企画を繰り返し、形骸化し緊張感を失った企画の誌面を晒すハメになっていった。特に若手俳人たちへの求心力を急速に失っていったように思える。

そういう状況に並行してインターネットが急速に普及。当初は出版メディアに対抗しうるとはとても考えられないレベルであったネットメディアが、利用者の拡大とともに十分影響力を持つメディアに急成長したのである。

そして『俳句研究』の休刊。これまでの俳句文芸の「中央」が揺らいだことを感じさせる事件であった。

こうやって書き出してしまってから言うのもなんだが、ずいぶんうっとうしいことを書いている。いや、ここでくじけるわけにはいかぬ。怯む心に鞭打って続けよう。少し情況というものを考えてみたい。

ネット上の「市民メディア」(草の根メディア)という点で日本より一歩先を歩いていたのが韓国であったことはよく知られている。その中でも市民記者の記事で構成された”Oh my news” は数年前まで大きな影響力(記者26,000人、読者一日200万人)を持つまで成長した。北朝鮮への資金提供が判明したあたりから勢いを失ってしまいはしたが、一時は韓国政府が”Oh my news”を他の新聞社と同等に扱っていたほどであった。

日本では、報道分野でそのような市民メディアは大きな動きになるには至っていない。ただ俳句の世界では「週刊俳句」が似たような立場を作り出したように思える。それはさまざまな分野で起こるだろうし起きているのだろう。

そんな草の根メディアというものが、現実にいくらでも作れる状況の中で、既存のメディアはどうしているのか。

テレビやラジオという放送メディアでは、ラジオ分野がネットメディア利用で一歩先んじている。これまで聴覚情報に限られていたものが、サイトを併用することで画像やテキストを補強することが可能となり、今後その流れが加速するだろうし、スマートフォンなどでもワンセグ・テレビよりRadikoに代表されるラジオアプリが人気を呼んでいるのも面白い現象である。

比較するとテレビはネットメディアとの相性がラジオよりかなり劣る。ひょっとするとテレビというメディアは近い将来バラエティ番組中心となり、情報を発信するメディアとしてとらえられなくなるのかもしれない。

新聞もまた厳しい状況に置かれている。中央から発信される(管理された)情報をただ転載しているだけのような紙メディアでしかないのなら現在の購読数減少に歯止めはかからないだろう。

新聞がその活路を求めるとすれば、地域社会にそれを見出だすことも選択肢となるのかもしれない。そうすると案外地方紙より全国紙のほうが厳しくなるとも言えそうだ。

こうして見たとき、既存のメディアはこれまで漫然と情報の横並びに終始してきて、どこからの発行であっても内容に違いがあるわけでもなく、そして伝達の早さの点では圧倒的にネットに敗けている。俳句とあまり関係のないことを書いていると思われそうだが、俳句のメディアも上記のことと似たり寄ったりの状況で流れてきたのだ。横並びという点だけ見ても、俳句総合誌の企画を見たならばうなずかざるをえないのではないか。

そうした中で「週刊俳句」のようなサイトが登場し、それが俳句総合誌の立場をおびやかすほどになっているのは、出版かネットかの違いではなく、内容の違いであろうと思う。どれも似た企画、そして執筆者も高齢の主宰クラス優先。それでは来月また読もうという気にはとてもなれない。

だから、前述の「市民メディア」のように多数の執筆者、多様な企画、多数の読者という「俳句メディア」の登場はモデルとしても注目されたのである。

『俳句界』2012年2月号に、川名大が「評論展望 ネット時代の可能性としての俳句」という論考を書いている。その中で川名は「可能性としての俳句や俳句言説はどこにあるのか」と問い、それはすでに総合誌や結社誌にはないと言い切っている。

ただ川名は「週刊俳句」などは「ネットの疎外者が母体の俳壇では未だ閉ざされた言語空間」とも言っているのだが、現在の俳句の世界をネット疎外者を母体としていると今現在、あるいはこれからも言えるかどうか、そこに私の疑問や違和感の素因もあるように思った。

私が本稿の冒頭に述べた違和感は、ネットが広範囲なコミュニケーションを実現したことで、「中央」という概念が地理的な物理的な経済的な「中央」から、情報の「中央」へと転換されつつあり、しかもそれが相変わらず「中央」という概念を捨てられずにいるのではないかということにある。

「地方」にいまも存在している濃密なコミュニケーションは「中央」の概念の変化にともなって変容するのであろうか。

それとも新しい「中央」が広範囲であることから、「地方」は飲み込まれてしまい存在意義を失って消滅へと向かい衰退を強めてゆくのだろうか。

「遠い他人」との希薄なコミュニケーションが「近い他人」との濃いコミュニケーションを衰えさせていくのだとしたならば、ネット社会が作りつつある、従来の「中央」にとってかわる新しい「中央」が、「地方」の意味を曖昧にし、従来の「地方」は現在それを支えている「ネット疎外世代」の退場とともに消え去ってしまうのかもしれない。それは古風な言い方を借りるならば「歴史の必然」なのであろうか。

私はそうは思わない。ネット社会が作る広範囲のコミュニケーションが従来の「中央」を崩壊させてゆく動きを、「地方」をあらたな可能性の場とすることへとつなげていく、そのための個々の創意が求められている。俳句という文芸の意義はそうした取り組みの中でより現代的なものになるはずだと思いたい。

しかし、物理的な「中央」が仮想「中央」化しつつありながら、「地方」という実態はその影響の外に置かれ、100年の歴史を持つ団体もある各地の俳句会が衰退し消滅し始めている。

これまで地域に根付いていた俳句文芸が、次の時代につながらず荒野と化しつつあるのだとしたら、私たちはいま破局の現場に立っているのかもしれない。

この半年意識的に地方文芸の現状を見る機会を得て、私は「中央」と「地方」というこれまでの構図がどう変容するのか考えさせら、「ネットメディアを特別なものとして捉える必要は無い」と考えてきた従来の姿勢を見直すようになってきた。

ネットの普及を背景に文化のあらたな「中央」が現われてくるのであれば、それはあらたな「地方」の登場でもなければならないのだ。



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