2012-02-26

危機とかたち 「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第二回シンポジウム基調講演資料を読んで 森川雅美

危機とかたち
「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第二回シンポジウム基調講演資料を読んで

森川雅美


「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第二回シンポジウム

日時 2012年3月3日(土) 午後 0 時 30 分開場  午後 1 時 00 分開演
(シンポジウム午後4時終了予定)

場所 日本出版クラブ会館 鳳凰
東京都新宿区袋町6番地(地図
TEL 03-3267-6111

料金 シンポジウム 2,000円
午後 4 時より同会場にて懇親会 6,000円(税込)

1部 基調講演 藤井貞和
2部 パネルディスカッション「詩型の融合~かたちはどこにあるか」藤井貞和、対馬康子、筑紫磐井、笹公人、江田浩司 (司会 森川雅美)








シンポジウム資料:三詩型交流企画20120303 藤井貞和





藤井貞和さんから送られてきた、膨大な引用による、現在の状況のタペストリーのような、講演資料に目を通しながら、「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」を立ち上げようと、最初に考えたときのことを思っている。

まだ、3.11の震災も起きていなかったが、町を歩いても、具体的には摑めないが、危機的な状況が進行しているのをおぼろげに感じていた。「詩歌梁山泊」を立ちあげたのは、そんな状況に対峙して、どのような言葉を紡ぐことができるのか、今にもつながる真剣な問いかけからだった。

そのような状況における言葉の問いを、藤井さんは、読者投稿や評論、実作を駆使しながら、的確に浮かび上がらせる。



例えば、和合亮一の一連の詩について語った、宗近真一郎の文章の引用。

だが、問題は、次のような現象だ。先に、フランス語において表象される「もの・こと」と、日本語で語られるしかない出来事とが交差することはないというアンバランスにおいて世界風景はバランス(調和)すると述べた。そのバランスには表現と非表現とに亙る全現実の宿運が賭けられていい筈だが、和合は、自分を「異語」において「無人」にすると語りながら、実はそう語る「主体」を頑強に維持拡大しているということである。/つまり、世界風景のバランス(調和)のために沈黙するしかないという強度な母語的必然を覆すことによって、和合のツイッター(パロール)は例外的に「自我」の痕跡そのものとなり、それが日本語(=「自我」生成装置)における多くのフォロワーを得たのだ。

言葉の構造、かたちの生成と現在を、射抜いたような内容だ。さらに、同じく和合の詩について書いた、城戸朱理の文章が引用される。

和合亮一が『詩の礫』を始めるに当って「死と滅亡とが傍らにある時を、言葉に残したい」と語っていたことを思い出しておこう。それは、表面的にどのような見かけを持っていたとしても、徹頭徹尾、カイロス的な運命的瞬間を生き抜こうとする詩群なのである。/おそらく、そうした『詩の礫』の本質と、ツイッターという発表形態とは、奇跡的なまでの適合性を持っていたように思われる。書き終えて送信したとたんに、ネット上にツイートが反映されるツイッターの即時性は、日常的な時間意識への亀裂としての瞬間を反映するものともなった。



このように自由詩の、言葉のかたちの生成に触れた後で、藤井さんは定型の問題に切り込む。まず、短歌は加藤冶郎の文章

震災を白分の問題として受け止め、歌うとき、その人は当事者なのである。その源泉にあるのが想像力であることは言うまでもない。想像力は、直接的な体験を超える。

次に俳句高野ムツオ

もう誰も昨日の世界へは後戻りはできないのである。歴史も自然も、そして、人間の在り方も、昨日までの世界観は崩壊したこれからを歩まねばならないのだ。その俳句のあり方が、今一人一人に問われている。正念場はこれからである。



このように並べただけでも、それぞれのかたちの違い、それぞれの現在との対峙の仕方が見えてくる。もちろんこれらは、一人の書き手の考えであって、それぞれの詩型の総意ではない。とはいえ、藤井さんが引用したのは、その言葉に詩型の特長と問題が、明確に現れていると感じたからだろう。

さらに藤井さんの考える、詩型と言葉の関係の表を引用する。










最後に、資料に引用された短歌、俳句から任意に数編を引用する。

ライフライン皆無となれる町並は宙宇の果のごとき黒塊 佐藤通雅
許可車両のみの高速道路からわれが捨ててゆく東北を見つ 大口玲子
五色椿霜に傷むと傷まぬとしづかに花の咲きかはりゆく 石川不二子
ただよっているものどうしときどきはこん、とぶつかるここが海です やすたけまり
(せかいじゅうひとふでがきの風めぐるどこからはじめたっていいんだ)
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください 笹井宏之


夏雲や生き残るとは生きること 佐々木達也
舟虫やはらわた抜けし家ばかり 小川軽舟
鷹去つて双眼鏡のがらんどう  小野あらた
たんぽぽのどこかみだらな踏まれやう 松本てふこ
遠雷や大音響の貨物船 清水昶




詩歌は定型であれ自由詩であれ、いつも最先端では変容している。藤井さんの資料を読むと、そのような詩歌の最先端の形が見えてくる。かたちを越えた詩歌の新しいかたちの予感だ。



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