〔句集を読む〕
長時間露光撮影的花鳥
河内静魚句集『夏風』
関 悦史
河内静魚『夏風』(文學の森・2012年)は、『氷湖』『手毬』『花鳥』に続く第4句集。
その特質が顕著な句を挙げれば以下のようなところか。
羊羹の傷一つなき日永かな
青おびし黒や避暑地の夜の色
父の日の摑むところのなき浜辺
山の裾長し晩夏のひとり旅
十一月うすき扉のやうに風
ひろびろと夜空を載せる氷かな
一句目では、傷一つない羊羹の量感、照り、艶、稠密な感触が「日永」の反映として組織されなおし、それによって「日永」自体も抽象的な時空であることを止めて、軽やかなままにある密度を帯び始める。
一見単純明快に過ぎるとすら見えそうなすっきりした姿の句たちは、じつは皆そうしたある密度の変容のなかに静かに巻き込まれている。長時間露光で撮影され、動くものが皆消え去った、例えばデービッド・フォコスなどの写真のような滑らかさと、その静かな画面へと凝縮させられた時空の潜在力に似た濃密なものがこれらの句にも共有されているように思えるが、しかしそうした写真作品が帯びる崇高さ、超越性の感触をまでは共有していないようだ。
河内静魚の句は直接「よい」「美しい」といった言葉を使っていない句でもその美意識は人間のスケールを破壊せぬよう注意が払われており、ひろやかな時空と内面的な快さとの間に反映と連続性を形作ろうとする。心情や好悪、日本趣味に傾きすぎない、その営みと技術が句集全体の、余計なものの取り払われた静かな充実に通じているのである。
秋空は大きな耳となつてをり
折れさうな水平線やハンモック
山彦を奪ひあふ山すさまじき
夏帯や門の小さき浄瑠璃寺
夕焼は一段低く空にあり
塗り膳にこぼれ酒ある春の暮
透明は硬さに似たり冷し酒
神の手の浸されてある泉かな
いま届く封書の冷やシクラメン
蜜豆の中の古色と未来色
涼しさや手首のやうな竹に触れ
冷たくて明るし星の混むところ
肩の線そのまま腕となり九月
行く秋のつよき光が象の眼に
烏瓜海の高さに提げてをり
なお作者は東北の生まれ育ちであり、句集には「生地宮城県旧大川村」の前書きのある震災詠《陽炎や津波は海の意志ならず》も含まれる。
「海の意志ならず」と免罪されると、では海にとっても津波は不本意な事態であったのかと、その真意や事情を忖度しなければならなくなりそうだが、これは擬人化と受け取るのがそもそも適切ではないので、海には意志などそもそもないという認識を示しているともいえる。
ならば「津波の海に意志あらず」ではないのかとも思われるが、この形にすると「自然は非情」という意味合いが強く出過ぎ、逆の擬人化となる。「花鳥風月とともにある安心」(あとがき)をテーマとするという作者は、津波をそれが引いた後にまでそのまま居残る潜勢力のみを幻視するような「陽炎」として表出することで止揚しようとした。「意志あらず」ではなく「意志ならず」に表現が落ち着いたところに、この作者の方法と素材との齟齬、せめぎ合いの跡がわずかに感じられる。
河内静魚……昭和25年(1950年)生まれ。「馬酔木」「寒雷」を経て平成16年(2004年)「毬」創刊主宰。
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2012-02-26
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