2012-03-18

写生写生文研究会  私的感想として 彌榮浩樹

写生・写生文研究会レポート
いつ「写生」なのか ──私的感想として

彌榮浩樹


以下、「写生」研究会に参加しての、私的感想です。

○ “わからなさ”の推進力

俳句というものの“わからなさ”。それが、僕が俳句に携わり続けている(携わり続けられている)最大の要因(のひとつ)です。

「季語」が、「切れ字」が、「五・七・五という型」が、「俳」が、わからない。だから、一句一句の作品をつくりながら、「季語」ってこういうものだろうか、とか、これが「俳」句ということなのだろうか、とか、考え続ける。

考えるといっても抽象的に漠然と考えることはできないので、一句一句作品をつくることによって(ちょうど、数学において、具体的に計算したり図を描いたりすることが、考えることであるように)俳句について考える。それが、僕にとっての俳句作品づくり(のすべてではないにせよ)大きな部分です。

いわば、一句一句が、俳句に対する試論、でもあるのです。

もちろん、「俳句とは○○である」とか、「季語とは△△である」とか、誰かに与えられたあるいはすでに自分でつかみとった<定理>や<公式>に従って、その<定理>や<公式>の具現として一句一句の作品を生み出す、という俳句作品づくりもあるでしょうし、他人のそういう営為をどうのこうのいう資格もつもりもありませんが、そうした決まった型によって押されたスタンプのような句は(とりわけ作者自身にとって)文学的な興奮を誘うものにはなりえないと思うのです。(さらに言えば、俳句の「俳」とは二重性・屈折のことですから、そんなスタンプ的に量産される作品は、決して「俳」句作品ではない、と思うのです)。

もちろん、“わからない”というだけでは何も始まらないのですが、逆に、広く浅くわかったうえで、全くのフリースタイルで、何でもあり、いろんな句を自由につくりますよ、というような作風の人(とりわけ俳句の場合にはそれなりに“わかる”ことができてしまいやすいという「罠」があります)は、端的に言って、器用貧乏(広く浅い句の濫造、何でもありだからこそほとんど何でもない作品の寄せ集め)に終わってしまいます。

だから、わかってしまうのではなく、“わからなさ”を保持しながら、とりあえずこうであろうとまあ言える、という叩き台を(自分のなかに)用意することが必要だ、と僕は思うのです。それが“作句信条”とでもいうものなのでしょう。

ただしあくまでもそれは叩き台であり、固定したスタンプの型ではない。重要なのは、“わからなさ”なのです。そして、その“わからなさ”を深めていくためには、とりあえずの“わかり”を叩き台にするしかない。さらに深く“わからなく”なるために、とりあえず“わかる”こと。そうしたダイナミクスが、俳句作家の論と実作との関係だと思います。

「写生」も、そうです。僕は「写生」がわからないからこそ、一句一句、これが写生だろうか、という試論として、作品を作り続けている(作り続けられている)のです。しかし、そうした営為をなすためには、とりあえずの叩き台として、「写生」とはこういうものだろう、という論を自分にとって意味あるかたちで立てなければならない。そしてその論を、自分のつくる一句一句によって揺さぶり・壊し、さらに深い“わからなさ”へ向かって掘り進んでいかなければならない。

それが俳句づくり(いわば、論と実作の弁証法)だと考えている僕にとっては、今回の「写生」についての研究会は、たいへん刺激的でした。つまり、ますます「写生」の“わからなさ”を深める契機になりました。

以下、僕自身が今回の研究会を体験したことで、より深い“わからなさ”へ向かうために“わかった”こと、自分の“わかり”を揺さぶられて“わからなくなった”ことを、(たくさんあるので)絞りに絞って、述べてみます。皆さんそれぞれの「写生」についての“わからなさ”を深める刺激になれば、幸いです。

○ いつ写生なのか?(1) ~ 俳句作品の表現構造

N.グッドマンは、「藝術とは何か?」という問いは問い自体が誤りであり、「いつ藝術なのか?」と問うべきだ、と述べています。つまり、あるもの(例えば便器)が、単なる生活の用具でもありうるし、デュシャンの「泉」のような藝術作品でもありうる、という事態は、藝術を、静的な規定ではなく、動的な機能あるいは構造としてとらえるべきだということを示しているのだ、と。

それに倣えば、「写生とは何か?」ではなく、「いつ写生なのか?」と問うべきなのかもしれません。

そこで、次のような図を、「写生」(の“わからなさ”)を考えるための叩き台として提示してみましょう。

俳句作品の表現構造図(ver.1)
x 世界 ものごとのありよう  現実

  ↓y 作者  ことばの選択・結合

z 俳句作品 
         
   ↓w 読者  1層(概念)2層(イメージ)3層(身体感覚)での感受

v 世界’ ものごとのありよう’ 



きわめて単純な図ですが、僕たちが俳句作品を「書き」「読む」事態の、概要については、これに則って考えることができるでしょう。

x→y→zが、作品をつくる、「書く」プロセスです。現実xをもとにして、作者yによることばの選択・結合によって、作品zが生み出される。

もちろん、その場合、xに即した<ありのまま>を表現しようとする志向のもとでの作品zもあれば、xを無視したようなフィクショナルな志向による言語作品zもあるでしょうが、そのどちらの営為にせよ、所詮、四次元の無尽蔵の質を蔵するxに対してzはわずか十七音程度のことばである別次元のものであり、また、いくらフィクショナルな志向に基づくzであってもそれが何らかの意味をもって読者に働きかける以上、それは何らかの意味で現実xに基づいている、というのが、言葉の本質です(もちろん、その程度の差こそが重要なのだ、という考え方はあるのですが)。

z→w→vが、作品を「読む」プロセスです。言語作品zを僕たちは様々なかたちで(概念的な意味内容として、感覚的な・想起的なイメージとして、あるいは、イメージ以前の原感覚=体感として)享受するのですが、それは、上に述べたような言語の本質から、(どんなにフィクショナルな言語表現であっても)現実世界に対する享受を前提にしています。つまり、僕たちは作品zを、現実vへと反照するかたちで享受しているのです。

さて、では、この図において「いつ写生なのか?」。

巷に流布している<いわゆる写生>の定義とは、まず、「x→y→zにおいて、zがxを<ありのまま>に再現すること」でしょう。

しかし、少し考えればわかるように、x<ありのまま>のz、とは、端的に言って意味不明です。現実世界xと言語作品zとは全く別の次元のものですから、(xの次元での「言葉」を、表現した「言葉」zででもない限り)<ありのまま>などありえません。

だから、<いわゆる写生>とは「読者wにおいて、v(作品を読んだ結果として読者が感じ取る現実’)がx(作品のもととなった現実)の再現であることを狙いとする(v=xを果たす)言語作品z」なのだ、とでも定義すれば、僕たちの実感にかなり近くなるでしょう。つまり、作品zを享受したときに、「ああ、これ(v)はその通り(x)だなあ」と、概念で、イメージで、身体感覚で思わせる、そうした作品zだ、と。

こうした<いわゆる写生>は、やはり俳句の写生を語るうえで、前提とすべき考え方だと思います。こうした考え方を抜きにした写生の定義(例えば「規制概念の打破こそが写生なのだ」とか)は、間違いではないかもしれませんが、俳句の写生を考える上での横紙破り(不誠実な語り方)だ、と僕は思います。

しかし、問題なのは、そうした<いわゆる写生>の句が、魅力的な俳句作品かどうか、です。魅力的な作品ではないものは、それがいくら<(いわゆる)写生>であっても仕方がない。そして、往々にして、<いわゆる写生>の句は、つまらない、というのも事実です。

そこで、俳句の「写生」を、意味あるかたちで考えるために、図をヴァージョン・アップしましょう。

俳句作品の表現構造図(ver.2)
x 世界 ものごとのありよう  現実

  ↓y 作者 ことばの選択・結合 (主体的・精神の冒険)

z 作品 結晶化 シュルレアル

   ↓w 読者〈わたし〉1層(概念)2層(イメージ)3層(身体感覚)での感受

v 世界 ものごとのありよう’ xでありながらヘンな・オドロキを与える世界 



僕自身は、このx→y→z→w→vのプロセス(構造)のダイナミクス・複雑さ全体を、俳句の「写生」として考えています。

そして、すぐれた俳句作品とは、(たとえ作者自身がそれを「写生」の句だと考えていなくても)、何らかのかたちでこの図ver.2に即した句であり、すなわち「写生」の句なのだ、と考えます。

俳句作品がすぐれた藝術としての機能を果たすためには、こうした構造のもとで「書き」「読む」ことをされる必要があるのだ、と。

言い換えれば、こうした構造のもとで「書き」「読む」ことをされることですぐれた藝術としての機能を果たす俳句作品は、すべて「写生」句なのだ、と。(もちろん、これは、僕の「写生」観であり、極めて偏った観です。しかし、本気で全力で俳句に打ち込んでいる作家どうしで、例えば「写生」なら「写生」について、同じ観などあるはずがありません。つまり、作家はすべてそれぞれに偏った観をもって作品づくりをなしているはずのです。だからこそ、今回のような、作家どうしの観がぶつかりあう研究会の意味があるのです)。

この図は基本的には、ver.1と同じ構造なのですが、ver.1とのいちばんの違いは、作品zが、「読み」のz→w→vにおいて、読者wに、オドロキを与える、ヘンな感じを与える、ということです。

作品zを読むことによって立ち現れる世界vは、今まで見慣れた世界xによく似ていながら、見慣れないその作品独自の感触を持つ。そうした作品は、僕たちに、慣れ親しんだ世界xでありながらそれを超えた強度を持つ、新しい世界Vを体験させる。すぐれた「写生」の作品zのリアルとは、そのような、現実でありながら現実を超えた強度をもつ、ヘンな、オドロキのある現実vです。図中zの「シュルレアル」とはそうした事態を言い表わす言葉です。

 桔梗の花の中よりくもの糸     素十
 くもの糸一すぢよぎる百合の前

研究会でも話題として取り上げられたこの二句。どちらも、現実xからとりだされた景zですが、そこから立ち現れる「シュルレアル」は前者の方が強く、それは、読者wにとっては不気味さ、ヘンさとして感知されるものです。後者は、絵としてよくできていると感じさせるぶん、不気味さが弱い。

 桔梗の花の中よりひとの声    (改)
 くもの糸百億よぎる百合の前 (改)

出鱈目な改悪句ですが、こうした句の不思議さ、<いわゆるシュール>さは、すぐれた俳句の持つ複雑さを持っていません。初心者にはこちらの方がウケるかもしれませんが、底が浅い。

俳句の「写生」句が、<ありのまま>を保持していることの意義は、世界xや世界vの強さを揺曳していることです。図ver.2でいう「シュルレアル」とは、こうした、<ありのまま>でありながら(あるからこそ)ヘンである・オドロキを与える、という屈折したもので、その屈折こそが、「俳」句の味わいなのだ、と僕は考えます。

○ いつ「写生」なのか?(2) ~ パネラー各氏のこだわり

さて、今回の研究会でのパネラーの、竹中氏、岩城氏、中田氏の発言にこの図を援用しながら「いつ写生なのか?」を考えると、どうなるでしょうか。

竹中宏氏の「写生」とは、上図でいえば、yのxとの接触面でのありよう、xに対するyの“態度”だ、ということになりそうです。

興味深いのは、竹中氏は、y→z→w→vに関しては、あえて語ろうとしないことです。それが俳句である以上、当然それをどう俳句作品として実現するかを抜きに語るのは難しいはずですが、あえて、y以下の俳句としての表現の様相には触れずに、xとyとの接触面にのみ徹底的にこだわる。

それが、竹中氏の「写生」観を極めてユニークな(従って晦渋な)ものにしています。逆に言えば、y以下をフリーハンドにしつつyとxとの接触面にこだわることによって、竹中氏の作品は極めてユニークな(従って晦渋な)「写生」句たりえている、のです。

竹中氏の作品の、y以下の極めて技法的な言語操作のみに目を奪われて、そこを見失ってはいけません。もちろん竹中氏の作品は<いわゆる写生>の句では全くありませんが、だからこそ、竹中氏の営為をもとらえるような射程で「写生」を理解することが、僕たちに突きつけられているのです。

対照的に、岩城久治氏の発言は、「写生」という考え方の徹底的な捨象です。俳句作品の値打ちは、あくまでも、z→w→vが魅力的に発動するかどうか、である、と。

<いわゆる写生>はもちろん、「写生」にもたれかかった俳句作品の評価を、ラディカルに無化しようとする。しかし、これは「写生」を否定することではありません。「写生」の句だからダメだ、などというのではなく、「写生」の句だ、というような見方をいっさいしない、しても意味がない、という立場です。

これは、一見、幅広い柔軟な考え方に見えますが、実はとんでもなくラディカルな俳句観なのです。おそらく僕たち俳句作家の多くは、(多くの<いわゆる写生>の句はつまらないけれど)すばらしい「写生」句もある、という考え方を了解しているはずですし、あるいは反「写生」として自身の作句活動を位置づけることで、逆に「写生」の(敵としての)存在意義を認めているのですが、そうした親「写生」でも反「写生」でもなく、いっさい考えない、考える必要がない、という姿勢には、何ともブラックホール的な底知れぬ深淵がある。

それが、岩城氏の俳人としての立ち位置です。では、どのようにして、自身の作品を俳句として立ち上げるのかという(まるで足場なしで自分で自分の身体を持ち上げるような)極めて過激な俳人としての立ち位置が、今回の研究会でも、「写生」を無化する岩城氏の発言に現れていました。

中田剛氏の発言は、z→w→vが魅力的な作品として立ち上がるには、x→y→z→w→vにおいて、xでのモノの質感を立ち現わす必要がある(そのためのxとの接触面におけるyの態度の真率さ、y→xでの巧みな言語操作技術が重要だ)というものだ、と受け取りました。

つまり、図ver.2の構造を貫くものとして、「モノの質感」という具体的に感知できる要素が作品zの表層にあらわれ(世界vの立ち現れ)てこそ、俳句作品としての価値がある、と。中田氏の提示した、「写生」に対する「写実」という概念は、そのへんの、よりクリアで繊細な質感を表わすことの謂、だと受け取りました。

○ いつ「写生」なのか?(3) ~ 研究会を受けて、僕自身の「写生」とは?

こうした3人の「写生」観と突き合わせることによって、僕自身の「写生」観が今までよりもくっきりと自分自身に見えてきた気がします。

まず、僕自身は、あくまでも「写生」にこだわる立場で俳句をつくっている。

岩城氏の(僕から見れば過激な)「写生」無化論と付き合わせると、僕自身がいかに「写生」に頼って俳句作品をつくっているか、がよくわかります。「写生」を禁止されたら、もう俳句はつくれない。決して、俳句づくりにおいて、「写生」を必要条件とも十分条件とも思ってはいないけれど、しかし、決定的に致命的ななにかである(クサい言い方をすれば「俳句のいのち」である)と僕が考えている、ということが、岩城氏の発言によって、より切実に表れてきました。

しかし、それは、中田氏の言うような、モノの質感にこだわるものではない。僕の考える「写生」とは、もっと大雑把なものであり、x→y→z→w→vという構造自体の持つ力学をあてにしたものです。逆に言えば、読者wに、z→vにおいてモノの質感の精妙さを感じさせることを、僕はほとんど考えていない、ということがはっきりしました。

ということは、僕のつくる「写生」句は、精妙な「写実」句では全くない、ということです(したがって、こんな句はちっとも「写生」句ではない、と言われても仕方がないものです)。こうしたことは、僕自身にとって、今回の研究会の中田氏の発言によって気づかされた、非常に重要な深刻な発見でした。

そして、僕には、竹中氏のような、xとの接触面での精妙なこだわりもありません。竹中氏は、自身の「写生」を、「ほとんど生きることと同義だ」とおっしゃっていました。比較すると、僕は、もっと、がさつに生きています。もっと雑に、現実をむしりとり、乱暴にx→y→z→w→vという構造に放り込み、たまさかヘンな句ができる僥倖をあてにする、といういい加減なものだ、ということがよくわかりました。

しかし、これが「生きることと同義」である以上今さら変えようのないものです。がさつさにも、(うまく行く場合には)精妙さにないメリットがある(こともある)でしょうし。

というようなことが、はっきりしたのです。作者は自分で作品を作りながら、作品づくりを100%制御しているわけではありません。そんななかで、冒頭に述べたように、自分の営為に関して、より“わかる”領域が増えていけば、もっと“わからなさ”を深めることができる。そういう意味で、僕自身の「いつ写生なのか?」について自分なりに“わかる”ことができたのは、大きな収穫でした。

○ 今後考えるべき「写生」についての“わからなさ” たとえば…

がさつで大雑把な僕自身が、x→y→z→w→vという構造の力学をあてにする「写生」の、今後探究すべき“わからなさ”の一つ(これも研究会のなかで思いついたことです)が、「俳句においてことばはすべてオノマトペ化するのではないか?」ということです。

たかが十七音程度の詩句が、「シュルレアル」を現前する作品zたりうるマジックの秘密の一つがそこにあるのではないか?

桔梗の花の中よりくもの糸     素十
桔梗の花の中からくもの糸    (改)

ひょっとしたら、単に馴らされているからだけなのかもしれませんが、やはり前者の方がよりヘンで、シュルレアルで、つまりより「写生」句としてすぐれた作品だと思います。そして、この二句の「より」と「から」とは、表層的な意味としてはどちらもほとんど同じ「from」的な位置関係を表わしています。

では、何が違うのか、と言えば、「より」は「より」っと、「から」は「から」っとした感触を与える、ということではないか、と。「より」の方が、陰湿で・撚れていて・深い、そんな感じをあたえるという事態は、「俳句における助詞のオノマトペ化」として探究する意味があると思います。

桔梗の花の中よりくもの糸     素十
桔梗の花の中より蜘蛛の糸    (改)

視覚的オノマトペ、という言い方はないでしょうが、日本語ならではの表記の仕方の差異もいわばオノマトペ的に働く、僕にとってはx→y→z→w→vの構造全体の「写生」のマジックの問題です。

両者を比べると、原句の糸は、「くも」っとしたシンプルな感じ、改悪句は「蜘蛛」っとしたごちゃごちゃとした感じ、を与えています。そうした視覚的オノマトペ効果が、この句が「写生」句であることの本質でもある、と僕は考えるのです。

たとえばこうしたことが、竹中氏とも岩城氏とも中田氏とも異なる「写生」観をもつ、僕にとっての今後探究すべき「写生」の問題です。それは、竹中氏でも岩城氏でも中田氏でもない、僕自身にとっての切実な問題として僕自身が考えるべきなのだ、ということが、今回の研究会を刺激として、明らかに見えてきたのです。

以上、とりとめありませんが、今回の研究会の感想です。

本当に、刺激的な研究会でした。

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