成分表57 マトリョーシカ
上田信治
「里」2012年7月号(11月刊)より改稿・転載
2012年10月7日に、角川『俳句』創刊60周年記念というシンポジウムが行われた。それは「大震災と詩歌」というテーマで、俳句・短歌・詩において、「震災」がどう書かれたかを検証するという内容だった。
詩人として出席し、被災児童の詩を朗読し、その感動を語った和合亮一さんに、自分は客席から質問をした。
「詩歌の価値は、動かした感情の絶対量で決まるのだろうか。読者としての自分の涙を、作者としての自分は信じてしまっていいのか」と。
和合さんは、今は何が正しくて何が正しくないのか全く分からない時だから、自分は自分の涙を信じるしかない、と答えられた。
話は飛ぶが、だいぶ以前、ある友人が「お母さんが死んじゃったの」と泣きながら電話をかけてきた。もうお互い四十歳を越えていたはずだ。電話を切ってから、自分は、そのときの彼女の声を、小さな子供が泣いているようだった、と思った。
自分は親との死別を経験していないが、成人としての自分は、それを誰もが経験することとして、フラットに受けとめるだろうと思う。しかし、そのフラットさを下から突き上げるように、小さな子供の自分が泣くかもしれない。
人の心は、マトリョーシカのようになっているのだと思う。今の年齢の自分の中に、過去の各年代の自分がひと揃い、保存されているのだ。
ここでいう「心」とか「自分」とは、深く条件づけられた感情のセットのようなもので、それは、その人の人格に組み込まれていて、ことに際して発動する。
人の口調がふとぞんざいに変わってまた戻ったりするのは、一瞬、学生時代のその人が現れているのだろうし、「その人を好きでなくなったことが、悲しくて仕方がない」というようなアンビバレントな感情は、それぞれ別の時に定着したセットが、ばらばらに発動しているのだろう。
和合さんは、震災後、シュールレアリズムの詩を書いていた自分というものが消失してしまった、ということを、言われていた。
人が何を価値とするかは、その人の今現在の思想であって、それは移り変わり失われてしまうことのあるものなのだろう。
けれど一方で、価値は感情を根拠とする(だから和合さんは、わずかに残された価値として「涙を信じる」というのだと思う)。
過去のその人の感情は、発動しにくくなったとしても、セットとして残る。とすれば、かつて、そういう詩人であった人は、今も和合さんの中にいるのではないか。
そういうことを思った。
我々はマトリョーシカぞ秋気満つ 野口る理
少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
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