2013-06-30

チェシャ猫に取り残されたかなしみ 宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』を読む 三島ゆかり

チェシャ猫に取り残されたかなしみ
宮本佳世乃句集『鳥飛ぶ仕組み』を読む

三島ゆかり



「八月の数字の跡の残りたる」から始まり「ともだちの流れてこないプールかな」に終わる本句集は、具体的な事物を消し去った痕跡としてのかなしみに彩られた叙情的な句集である。まずは森から佳世乃ワールドに迷い込んでみよう。


1.森

荒星や抗ふ森の咲きはじむ

「荒星」「抗ふ」と頭韻を踏み、星と森の拮抗するうつくしさを溢れんばかりに詠んでいる。「森」全体が「咲きはじむ」という感覚的な把握が冴えわたっている。頭韻を踏んだ句は他に「鳩の目の離れてゐたり花の雨」「蓮の葉へ蓮の花散るしづけさよ」「かたすみのかたいすすきを描く絵筆」などがあるが、いずれも静謐さをたたえている。

雨あがり素数のやうな夏の森

「素数のやうな」という直喩は尋常ではない。素数は1およびその数自身のほかに約数を有しない正の整数。雨あがりの夏の森は、素数のように自立した生命体によってむせかえっているのである。この句のあと、素数の句が続く。「三人の家族の空に合歓の花」「七月の桟橋へ布掛けにゆく」。これらの句はそれゆえ、どこか満ち足りていない印象を発している。


2.夕暮れ

夕暮の水のくらさよ梅ぞめく

梅が騒いでいるのである。DNAに刻まれた夕暮れのさびしさを感じる。「よ」という間投詞、「ぞめく」という古語のどこかアンバランスな感じが一層雰囲気を盛り立てる。

夕虹のあと鳥籠の澄みにけり

この鳥籠にいるはずの鳥は恐らく長らくいないのだろう。夕虹と鳥籠のフォルムの連続な推移が寂寥感を増幅する。

夕焼を壊さぬやうに脱ぎにけり

一日の終わりに服を脱ぐように、うつくしい夕焼の記憶をそのまま脱ぐのである。奇想にして官能的である。官能的にして、民話の鶴か雪女のように、この世ならざるかなしみを感じる。


3.触感

ざりざりと梨のどこかを渡りゆく

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫が笑いだけを残して姿を消すように、佳世乃ワールドでは、いろいろなものが具体的な触感のみを残して消え去って行く。この句でも梨の触感だけを痕跡として残して消え去る。読者は「ざりざりと」という巧みな擬態語を前に途方に暮れるのみである。

玄冬の鳥の子紙のふかさかな

これは究極の写生句なのかも知れない。歳時記によれば玄冬は陰陽五行説で黒を冬に配するところから来た冬の異称で、玄は黒の意。黒い冬を背景として、眼前にはただ鳥の子紙があるだけなのだ。「ふかさ」というありきたりな形容によって、ただ鳥の子紙の触感のみが喚起され、他になにもない。


4.共感覚

はつ雪や紙をさはつたまま眠る

同じ紙を題材にした句でも、こちらは雪の気配と紙の触感が微妙に通じ合う。共感覚とは、音に色を感じたり、形に味を感じたりすることである。チェシャ猫のたとえで押し通すなら、消えないチェシャ猫であり移動するチェシャ猫である。もし具体的な事実を俳句に求める読者なら「紙をさはつたまま眠る」になんの意味があるのだと行き詰まるだろう。強いて言うなら佳世乃ワールドには印象の痕跡しかない。もしかすると「髪をさはつたまま眠る」だったのかも知れないが、そんな詮索は無意味である。

紅梅のゆるく始まる和音かな

先に「梅ぞめく」の句について触れたが、またしても梅と音の配合である。そして季語はその他の部分の象徴として現れる訳でもない。

きんいろの夕立のありハ長調

夕立は激しい音を伴って降るものだが、あえて視覚に限定してから、それを音楽用語を取り合わせている。ハ長調には#もbもない。あこがれにも似た神々しさが鳴り響くのを感じる。

あはゆきのほどける音やNHK

前句もそうだが、いくつかの佳世乃句は二物衝撃において、「季語+長いそれ以外」という作り方をせず、「季語を含む長い部分+それ以外」という作り方を試みている。俳句において前者が一般的なのは、文芸の伝統を背負った季語が象徴性を持ち得るからである。例えば、「菊の香や奈良には古き仏たち 芭蕉」であれば、「菊の香」は「奈良の古い仏たち」を象徴している。佳世乃ワールドにおいて「ハ長調」や「NHK」といった語は、デフォルメされた俳句形式において象徴機能を強いられている。淡雪のほどける音など現実には耳にすることはできないのかも知れない。あたかもハイビジョンを駆使して制作された架空の放送作品であるかのような、現実と虚構のはざまで、いま作者の共感覚が研ぎ澄まされている。

桜餅ひとりにひとつづつ心臓

こちらはオーソドックスな「季語+長いそれ以外」。「ひとりにひとつづつ心臓」という当たり前の事実に対して季語を配合している句のようにも見えるが、桜餅を目の当たりにして詠んだ句のようでもある。桜餅の不思議な曲面が、こう並べられると心臓となんとも響き合う。だが、それが視覚だけの共鳴なのかは分からない。桜餅の触感も味も全部共鳴しているような気がする私は、完全に佳世乃ワールドの術中にはまっている。

蜻蛉の翅の透けたる喫茶店

これも共感覚といっていいかも知れない。蜻蛉の翅のどこかぱりぱりした感じは、いかにも太古からの生物であることを感じさせる。そんな脆くも懐かしい感じは、煙草の煙で壁がすっかり茶色くなってしまった古い喫茶店にも通じるものがある。


5.かなしみ

八月の数字の跡の残りたる

八月の数字が何に属していたのかは消し去られている。句集全体の一句目は、句集全体の予告のように存在する。ほとんどすべての句は、これまで見てきたように、残りたる跡として存在する。それは、蒸留されたかなしみのようでさえある。

ともだちの流れてこないプールかな

豊島園の「流れるプール」だろう。その固有名詞があってこその「流れてこないプール」である。当然流れてくるべきともだちが流れてこないまま、永遠に俳句の中に定着している。

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