2013-07-21

水の言語 追悼 長澤奏子 三宅やよい

水の言語 追悼 長澤奏子

三宅やよい


「天狼の新人である。自己の心情を抒情的に告白するというよりも対象に迫って物の本質つまり根源を追うという作風で、剛直な表現を取っている。誓子の弟子だけに物派である。物と物との関係の面白さに魅せられているといえようか。」とは昭和33年に刊行された現代俳句全集で沢木欣一が若き小川双々子を評した言葉である。

  げんげ田に鐡の性器のけぶりをり   小川双々子 『くろはらいそ』

アサヒグラフ(1985/10/10)号「俳句の世界」現代の俳人特集で、北川透は小川双々子の上記の句について次のように語っている。

「鐡の性器」とは何であろうか。かつてはじめてこれを眼にしたとき、その暗くなまなましい物質感に圧倒されるものを感じた。

げんげ田にけぶる「鐡の性器」は双々子にとっての俳句のメタファーかもしれぬ。そしてメタファーにとどまらない「暗い物質的なもの、無機質なものの華やぎ」が双々子の魅力であると評している。

双々子についての引用が長くなった。双々子のことはよく知らない。じっくり句集を読んだこともない。亡くなった長澤奏子さんは双々子の主宰する「地表」には所属していた。俳句も双々子の影響を受けているだろうが、上記のような双々子の句の感触とは違う印象がある。

私が名古屋で第一句集を出したとき、句会の仲間に合評会をやってもらった。当時、同じ「船団」に属していたことが縁で長澤さんにパネラーになっていただいた。俳句を始めて3年目で作った句集のあまりの拙さに驚かれたのだろう、季語や助詞の使い方について厳しい指摘をいただいたが、それ以後本や同人誌を出されるたび送っていただいた。

名古屋にいるとき、一度だけ名古屋駅前の中小企業センターで開催されていた「地表」の句会に出席したことがある。仲間内で気の張らない句会をやっていた私には俳句道場のような厳しい雰囲気の句会だった。以下はその句会で出された句。双々子の選を出席者が固唾をのんで待つ。そんな緊張感がひしひしと伝わってきた。

  木下闇この身潜らば透けゆかむ    長澤奏子

  ロラン・バルト夕顔の辺に来てをりぬ  伊吹夏生

  道へ出てゆく手花火のあをけむり    小川双々子

双々子は2006年に、伊吹夏生は2010年に亡くなられた。50歳も半ばを超えると先輩諸氏との別れのみならず自分自身もいつこの世から消えてもおかしくないということが改めて思われる。
 
長澤さんは「地表」に入会後、ずっとこの句会の世話役で披講は長澤さんに任されていた。その昔、誓子に会ったときのことを「リュウとした身なりの紳士で、それはかっこよかったわよ」と話していたのを思い出す。姉は俳句、妹は短歌。妹の久々湊盈子さんの義父が新興俳句運動で中心的な役割を果たしていた弁護士湊楊一郎であり、久々湊さんは俳誌「羊歯」の編集をずっと手がけていたという。三橋鷹女とも何度かお話になったそうで、その折の話を久々湊さんより伺ったことがある。

短詩型に造詣の深い姉妹であるが、長澤さんは多才な人で俳句だけでなく散文にも手を染め、2000年に出版された『星芒』(砂子屋書房)は信長の三男信孝について書かれた小説である。尾張に住み信長に疎んじられたこの人物、秋山駿が「よくまあこんなことを書く気になったものだ」と驚くほどユニークな着目だったようだ。信長の存在が太陽だとすると、ほとんど歴史からは顧みられない存在。数ならぬ人物と退けられてきた信孝とその周りの人々に着目しつつ、丹念に描かれた短編小説である。

俳句と小説、長澤さんの中では何の矛盾もなく共存していたのだろうか。

  駅に着く列車重たい水流し 『水際記』(1988年・砂子屋書房)

長澤さんは汽車の流す水を「重たい」と形容しなければ収まらない。書き足すことなく複数の意味をはらんだ「水」をメタファーとして使うには処理しきれない感情が「重たい」という形容詞から滲み出してくる。俳句を書けば書くほど言い足りない物がこの人の中で募ったのではないか。それが長澤さんを散文に向かわせたように思う。感情を言葉に変換するため俳句の定型が必要だったように、散文においても枠は必要だったのだろう。時代に翻弄され、人生の岐路を大きな力に定められてゆく悲しみを表してゆく舞台に遠い尾張を選んだ。

  午睡する弟の耳たんぽぽ生ゆ

  夜の森へ母は炎を背に負ひつ

  束の間鳩を見しかずぶ濡れ三輪車

  夕立の昏さで母が立つてゐる 『水際記』

  母の帯干してゐたるも流離かな

  継ぐ人のなき墓石を洗ふかな

  絶えてゆく家と言ひつつ鶴を折る 『うつつ丸』(2013年・砂子屋書房)

弟の耳から生えるたんぽぽ、主を失い取り残されてずぶ濡れになる三輪車。夕立の薄暗さの中にかろうじて姿の見える母親は幽冥の境にいるようだ。身近な肉親をテーマに死の気配が濃いこうした作品は『うつつ丸』ではより近くに引き寄せられる。家を継ぐ者のいない墓。自分の身に迫る死は家が滅びること、死後はもう洗う人も途絶えるだろう墓石を洗う行為がせつない。第一句集の題名「水際記」に象徴されているように長澤さんはあの世とこの世を隔てる水際に立ち、あちら側にいる人にたえず呼びかけているようだ。

  闇の中水の言語に侵される 『水際記』

略歴を読むと戦後の混乱を幼児で上海から引き揚げ、8人兄弟の4人と両親を亡くし長女として下の弟妹の面倒をみて遅く結婚したという。『うつつ丸』の3句からは親を亡くし家族を失った悲しみ、継承するべき家が自分を最後に絶えてしまう無念さが感じられる。(このところ必要があって満州から家族で引き揚げてくる本を何冊か読んでいるが、上の子供が下の子供の面倒を見ながら命からがら帰国する苦労は並大抵のものではなかったろう。)
亡くなった家族と自分との間にある断絶。繰り返し過去が立ち上がってくる。手の届かぬ時間を、事柄を、揺り起こして再確認し、浄化してゆくための言葉が選ばれる。

  寄りかかる言語さびしき秋扇 『うつつ丸』

『水際記』から20数年後、長澤さんは突然思ってもいなかった病の宣告を受ける。

  他人とゐてふと聞こえしは骨笛か 『水際記』

  自らが骨笛となる風砂丘 『うつつ丸』

「骨笛」が他から自へ転化する容赦のない現実が作者の身に降りかかる。

私がそれを知ったのは頂戴していた俳誌『翼座』第3号(2010年4月)に掲載されていた詩「聞き漏らしたり」に次のような一節があったからだ。

夜中 ふと目覚め
へその辺りがチリリとして
手を当てると
縦一文字のキズがある
そう これが現実

覚醒した脳に
身の内にひそむ異変に気付いた
晩夏の午後の光が染みる
内視鏡検査で
画面にありありと現れた
腸内のガン
―切らんといけませんね
ドクターの声が
遠いところから響いた

/秋風に聞き漏らしたりガンの声
この詩を読んでお見舞いのハガキなど差し上げたが、長澤さんの直面した厳しい現実にはただただ黙するよりほかなかった。こうした場合、どのような言葉をかけたらいいのか、いまだに私にはわからない。自分がその立場に置き換わったとき身を揉む孤独にかなりの欝状態になり不安と向き合わなければならないだろうことは想像できるが、自分の死を受容するのにかなりの時間が必要になると思う。

この詩の最後で長澤さんは「他人の目には遊びに見えても/私には/のっぴきならない仕事」そのため「延命の手立てにすがろう」と決心を書き綴っている。久々湊さんの「あとがき」によると二年十か月にわたる闘病の間も取材旅行に句会に普段通りの生活を送っておられたようだ。自分の死と直面しつつ、しかしその日々の生活で絶えず自分の病気と向き合う日々を送っていた長澤さんは冷静に自分の病気を見つめ俳句に書きとめる。

  小鳥来るはらわた病みし吾に来る

  病む兎必ず立てよまた跳ねよ

  いづれ壊れてゆくわれに夏帽子

  私が消えた地球は炎えるのか

病に向かう処し方はそれぞれの俳人によっても違うだろう。一句を成している言葉以外のものに支えられて自分の句が読まれるのを潔しとしない俳人は病気を前提に意味づけられて句を読まれることを嫌うかもしれない。しかし闘病生活の中で書き留められたこれらの句からは、生きることへの切実な思いが痛いほど伝わってくる。自分が消えてゆく現実と向き合うのは生易しいものではないだろう。

遺句集『うつつ丸』がどのような時間構成で句が並べられているのかわからないが。次に揚げる句は、死を見つめつつも言葉が透明に澄んでいる。自分が去ってゆく世界を見つめる穏やかな眼差しが読む者の心に響いてくる。

  絵手紙の氷菓に銀の匙がある

  歌詠みの妹に紅梅ひらきけり

平成24年(2012年)6月18日逝去。享年、七十四歳。

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