2013-09-01

成分表60 〆切り 上田信治

成分表60 〆切り

上田信治

「里」2011年5月号より転載


東京郊外の喫茶店では、アイディア出しをしている漫画家らしい人たちを見かけることがある。罫のない白紙のノートを広げ、何かを書いたり頭をかかえたりしている人たちがそれだ。

彼らはそれぞれ、そこへ行けば「出る」店を持っていて、その場所をとても大事にしているのだそうだ。彼らにとって「出る」店はきっと神殿に近い。その場所には何かが下りてくると信じられていて、人を敬虔にし、コンセントレーションをうながす。

自宅の地下にバスケットボールのコートを作った漫画家が、近所の喫茶店で、耳にイヤホンをはめ、ネーム(台詞の入った簡単な絵コンテ)に打ち込んでいる姿を(テレビで)見た。

その人はとても成功しているので、作ろうと思えば自宅に喫茶店でもファミレスでも作れるのだが、そうはしないのだ。

仕事をする人が仕事用の外面を持つように、物を書く人にはそれ用に構成された内面がある。漫画家は、喫茶店のいつもの席に座るとき、身を透明な型に流し込むようにして、必要な内面を取り戻すのかもしれない。

物を書く人が、自宅では書けずに道具を持って町へ出てしまう心理は、彼らに〆切りが必要であることと同じ事情による。

「今日がダメなら明日があるさ」と歌ったのはドン・ガバチョ氏だったけれど、喫茶店には住めないし、明日があると無いとでは、今日という日の意味が変わる。つまり、喫茶店も〆切りも、人に持ち時間が有限であることを思い出させるものとして機能している。メメント・モリというわけだ。

喫茶店に営業時間があるように、俳句には十七音がある。

この程度の自由すら使い尽くせないことは、あからさまな限界であり、神様は自分に本当に僅かの物しかくれなかった、ということを端的に示しているけれど、ここまでという限度を知って、人はそれを越えようとする力を出せるのだし、ここで頑張りなさいと言われれば、この場所は「出る」と信じることもできる。
 
それは、たぶん、とてもいいことだ。

  いくつ鳴るつもりの柱時計かな  阿部青鞋

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