2013-08-18

朝の爽波80 小川春休



小川春休




80



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の春から初夏、恐らくは四・五月頃の句。「青」二月号から連載開始の「枚方から」、五月号は次のような内容でした。個人的には、久女句の「秋冷」、「あきびえ」と読むのか「しゅうれい」と読むのか昔から気になっているのですが、どっちなんでしょう。
 「アサヒグラフ」では俳句シリーズ第三弾として、六月には「女流俳句の世界」を出す由である。
 それに掲載するとのことで「私の愛誦する女流俳句」のアンケートを求められたのだが、咄嗟に次の二句が口をついて出てきた。

  紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女
  曇り来し昆布干場の野菊かな 橋本多佳子

 五句五人ということであったが、さてあとの三句となるとそう簡単には出てこなかった。
(…中略…)久女にまつわるさまざまの事には私は余り興味がない。あるのは久女の異常な迄の俳句への打ちこみようであり、その気力である。
 橋本多佳子にしても「日吉館句会」での俳句への打ちこみようは、並み居る錚々たる男性俳人をたじろがせる程のものであったという。
 私は佳句を得る条件として幾つかのものを挙げたあと、いつもとどのつまりは「気力」であると結んでいる。(波多野爽波「枚方から・女流と気力」)

塵取に芥子の花びらありそめぬ  『一筆』(以下同)

四月頃から、すらりとした茎の上に花を開く芥子。花には一重と八重があるが、掲句はどちらであろうか。花自体は目にしておらず、どこからか飛ばされてきた芥子の花びらが、塵取に集めた塵の中で鮮やかに色彩を放っているのに気付く。そういう景と読みたい。

憂ふれば桜しべ身を撥ねて落つ


桜が散った後、萼に残った蘂が散る。時には散り敷く沢山の蘂で地面が赤くなる。掲句、「憂い」という心の事を詠みながら、心の容れ物たる「身」を描き、そこに撥ねる桜蘂をも描くことで、互いに作用を及ぼし合っているような、独特の景を現出させている。

流したる水桜しべ押してゆく


そこらの塵を一度に洗い流そうというのか、それとも水を捨てただけなのか、地上に大量の水が流される。地を赤く覆っていた桜の蘂が、勢い良く拡がる水に押されて流されてゆく。上五と下五とが動きから始まり動きに終わり、躍動感と拡がりを感じさせる一句。

竿秤置かれしところより干潟

竿秤とはいかにも古めかしいが、この干潟では今でも、掘った貝を測ってはグラム当たりいくらと計算するのに使われている、現役なのであろう。竿秤という一つのポイントから、展開されてゆく広大な干潟の景。軽快な機知の働きが、鮮やかに景を描き出している。

缶ビール飲む大寺のその一間

「その一間」とあるからには、それ以外の多くの部屋も想像され、読む者の心の中に大寺というものが具体的な実感を持って立ち現れてくる。昼でも日の届かぬ暗い場所も多い大寺の中に、缶ビールを開ける音が響けば、そこはもう暑い屋外とは別天地と言って良い。

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