「ku+」創刊予告特集
「ku+」が創刊されるのだ宣言
高山れおな
十二人の仲間で俳句雑誌を創刊する。
紙の雑誌である。
創刊号の参加メンバーは次の通り。
高山れおな(編集人)、山田耕司(同)、上田信治(同)、佐藤文香(同)
生駒大祐、阪西敦子、杉山久子、関 悦史、谷 雄介、野口る理、福田若之、依光陽子
雑誌の名前は「ku+」で、“クプラス”と読む。“句plus”というのが一応のアリバイ的な解釈だが、クプラスという音の響きの方が重要かもしれない。極彩の熱帯魚か、神話の鳥か、隕石と共に飛来した鉱物か、そんな異物の名めいた感じがするのは良いと思う。
ご存知のように、俳句世界では、北極がどちらで南極がどちらかさえ意見の一致を見ていない。当然、なにがプラスでなにがマイナスかもだ。しかも素晴らしいことに、クプラスと呼ばれる鳥も魚も鉱物も現実には存在しないらしい。飛んでゆくのやら潜るのやら、熱いのやら冷たいのやら、なにをするのか知れたものではないという次第なのだ。
俳句をひとつの定型の名として捉えるなら、それは姿の上でも、歴史的な由来の上でも、かなり明快なもののように感じられるし、事実、明快なものだと信じたがっている人は多いわけである。しかし、それがひとつの遊びの名だとすれば話はまた別だろう。
私たちが俳句を選んだのか、俳句が私たちを選んだのか、それすらわからないまま俳句で私たちは遊ぶのである。それは果てしない遊びであり、私たちはその果てしなさに耐えなくてはならない。
さて、こう書き進めながら、筆者は執筆にある困難を感じている。それというのも、この雑誌が同人誌の形態を備えながら必ずしも同人誌を志向していないこと、参加メンバーの顔ぶれが、年齢も閲歴もばらばらで、とりとめもないことがその原因である。
いや、そんなことは気にせず、華やかに、あるいは重厚に、または軽やかに、ひた押しの言挙げを心がければ済むのかも知れないが、そのように振る舞うにはこの書き手は少々年を食い過ぎ、遺憾ながら社会化し過ぎているようだ。かくて現時点での自己イメージは、国柄を異にした十二の独立国が集う国際会議で共同声明文を執筆しつつある議長国の実務官僚、みたいなものとなる。
もう少し、上記の要件を具体的に検証しよう。「同人誌の形態」というのは、この雑誌が執筆参加者の出資金による運営を前提にし、ボランティアの編集人が企画編集の現場を担う点を指す。執筆発表の権利が、出資と引き換えに与えられる点では紛れもなく同人誌である。にもかかわらず「同人誌を志向していない」というのは、つまり参加者の存在を外部に主張することには雑誌の主眼が無いということである。
ならば何を志向するかといえば、俳句という遊び、俳句という夢、その全体の攪拌であり、その先にある総合である。いかにも小さな雑誌の小さな出発であるが、私たちはマイナーを志向するものではない。
私たちが作り読む小さな詩には、日本語の歴史の総体が流入し、またそこから流出する――その可能性を信じていなければ、なぜそれに賭けられよう。
顔ぶれのばらばらさ加減は、冒頭のメンバー一覧を見ていただければ明らかだ。「ホトトギス」はじめ正調有季定型を掲げる結社の成員もいれば、もっともいかがわしき前衛俳誌「豈」の同人もいるし、俳句甲子園出身無所属の若者も、俳句界のIT化においてかなめの役割をはたしてきた人物もいる。
年齢差は、五十代前半から二十代前半までで約三十歳、しかもこの幅の中に比較的均等に分布している。三十歳の幅といっても、一人の指導者のもとに会員が集う結社誌ならどうということもなかろうが、メンバーのある程度の同質性を前提として創刊される場合が普通の同人誌としてはやはり異例に属しようし、本誌運営の難しさも楽しさも挙げてここにあると予想している。
もちろん十二人の価値観になんらの共通の基盤も無いのであれば、協力して雑誌を作ることはできない。
その共通性の第一は、編集人のうちの一人の個人的キャッチフレーズを援用するなら「ハイクラブ」。第二は、俳句世界の風土病である反知性主義には与しない人たちであるということ。第三は、紙媒体と電子媒体の関係について、感傷的にではなくあくまで現実的にかつ積極的に対処する姿勢を持っていること。
なので早速、紙雑誌の創刊宣言を、こちら「週刊俳句」で発表しているわけである。
「ku+」は年二回刊行。
創刊号は本年十二月末の発行を目指している。
メンバーの作品発表に加えて大特集が二本、その他、企画記事いろいろ。
請うご期待。
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2013-09-22
【「ku+」創刊予告特集】「ku+」が創刊されるのだ宣言 ……高山れおな
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