【八田木枯の一句】
井戸のぞく母に重なり夏のくれ
角谷昌子
井戸のぞく母に重なり夏のくれ 八田木枯
第二句集『於母影帖』(1995年)より。
「天狼」時代の木枯の活躍は華々しく、同時期に「天狼」に参加していた若き宗田安正に「首を絞めたくなる」と言わせるほど羨望の的だった。木枯は「天狼」創刊当初から山口誓子に才能を認められ、「天狼」代表作家としての将来を嘱望されたが、同人とはならなかった。それは実業に忙しかったため、毎号の投句が滞りがちだったからだ。誓子としてみれば、期待すべき弟子として津田清子らと共に同人に推したかったが果たせなかった。
木枯は、昭和三十六年、台風の被害に遭い、商売の材木を全て熊野灘に流失してしまう。以降十六年間実業に専念し、ようやく事業が安定して俳壇に復帰したのは、昭和五十二年のことである。この年、うさみとしおと二人誌「晩紅」を創刊、翌年、二十代の「天狼」発表句をまとめた第一句集が『汗馬楽鈔』だ。この時、すでに木枯は「天狼」時代の作風との訣別を己に約していたのではなかろうか。
平成七年、第二句集『於母影帖』を刊行。昭和五十二年以降の「母」をテーマにした作品を主軸として収める。木枯の俳壇復帰を歓迎して便りを寄こした三橋敏雄や宇多喜代子らも、がらっと作風を変えた『於母影帖』にはさぞ驚かされたことだろう。第一句集『汗馬楽鈔』にはすでに〈身の裡を母にのぞかれ寒がる吾〉があり、「母」への執着の兆しがうかがえるが、題材のひとつに過ぎなかった。しかし『於母影帖』に至ると、自身の血脈や「母」に代表される女の母性、愛情、エロス、産む性としての業などが執拗なほどに縷々と描かれる。〈あを揚羽母をてごめの日のくれは〉〈夏は母と抱き合せなり筥の中〉などは、近親相姦まで想起させられる内容である。だがこれは俳壇復帰を果たした木枯による母胎を借りて新たなるいのちを授かるという再生の儀式ではなかったか。
掲句〈井戸のぞく母に重なり夏のくれ〉では、井戸を覗きこむ母の背を抱きすくめるように覆いかぶさる。母を護るというより、業を畏れる母と運命を共にする挺身の姿のようでもある。自分も底知れぬ井戸の深さに、母と一緒に今にも引き込まれそうだ。井戸を充たす闇は果てしなく黄泉にまでつながっているのではないか。永かった夏の日は、ようやく傾き始め、一つに重なった人影が夜の帳に包まれてゆく。
「井戸」「母」というと思い出すのは、種田山頭火の境涯だ。母は肺結核を病み、父の放蕩に絶望した末、井戸に身を投げて自殺する。三十二歳の若さであった。この時、十歳だった山頭火はずぶ濡れの母が井戸から引き上げられた無惨な死顔を見てしまう。その衝撃の大きさは、直後に祖母の膝に取りすがったことからもうかがわれよう。少年の時のトラウマから、山頭火は一生逃れ得ず、放浪と酒びたりの日々を送るようになったとも言えるだろう。
木枯が掲句を作った背景に、山頭火の母の事件があったとは断定できない。だが井戸のイメージとして当然心に掛けていたであろう。井戸とは、なんだか異界に通じていそうで、縁に手を掛けて中に身を乗り出すと、この世ならざるものが浮かび上がってきそうだ。木枯には暗がりに跳躍する魑魅魍魎が見えていたのだろうか。もしかしたら山頭火の母は、迂闊にも井戸の闇に手を伸ばしたため、魍魎に引きずり込まれたのかもしれない。
2014-07-20
【八田木枯の一句】井戸のぞく母に重なり夏のくれ 角谷昌子
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