2016-07-10

俳句雑誌管見 小鳥が来て

俳句雑誌管見
小鳥が来て

堀下翔

初出:「里」2015.1(転載に当って加筆修正)

小鳥来るそのさきがけの一羽来る 水田光雄 「田」2014.12

今年度(2014年度)の角川俳句賞を得た柘植史子が所属する「田」を見ていたら主宰のこの句が目に留まった。「柘植史子さん 第六〇回角川俳句賞受賞決定」という前書がある。受賞を祝する句としてたいへん気持ちがいい。

もっともこの句が気になったのはもしかしたらこれは変なことを言っているのではないかという気がしたからである。上五に小鳥来るとまず書かれるとき、とりあえず一羽か数羽かはさほど重要なことではないが、少なくともその小鳥は作者の目に映っている筈である。ところがその直後に水田は「そのさきがけの一羽来る」と記す。さきがけとなればこれは主体の前に初めて現れる小鳥である。ちょっとおかしいぞ。さっき小鳥は来ていたではないか。

「その」というのは先行する事物をさししめす代名詞だ。あきらかに主体の前に来た小鳥を「その」は受けておりながら、しかしそのあとに現れるのは「さきがけの一羽」であるという齟齬に筆者はとまどう。この句を〈小鳥来る(時期だと思っていたら)そのさきがけの一羽来る〉ということだと思うことはできるかもしれないが、しかし「小鳥来る」を感動的に特定する「その」を見るにつけ筆者には上五に書きつけられる小鳥が漠然とした印象だとは感ぜられない。そもそもこの年はじめての小鳥を言いたいのであればもっと簡単に〈さきがけの一羽の小鳥きたりけり〉などと書くことはできるではないか。

〈小鳥来るそのさきがけの一羽来る〉が書いていることはとても不思議だ。トリックと呼ぶこともできるその時制を考えるときに意識が向かうのは終止形というものの得体のしれなさである。われわれが日ごろお世話になっている助動詞のことを思い出してほしい。多様にして煩雑なあの助動詞というものは、しかし言葉の意味を確定せしめる重要な道具なのだ。「歩こう」と言うときわれわれはまだ歩いていない。「歩いた」と言うときわれわれはすでに歩き終えている。「歩く」という終止形はそれ自体が現在形であるわけではなく、「あした歩く」と言えばわれわれはまだ歩いていない。「小鳥来るそのさきがけの一羽来る」と言われたときそれらはいつのことなのか実は分からない。タイムパラドックスを思うことに似た落ち着かない思考はこんなところからも来ている。破綻した意味の中で時間はすれ違う。あかるくごくライトな情景に展開するそのすれ違いは読者の胸をただよいつづけるだろう。

きせるの火向けてや秋のくらやみへ 坂内文應「白茅」2014秋号

いろいろと変な気がしませんか。ちょっとずつ突っ込む。

まずは「や」が気になる。「てや」という切り方が。ときおり見かけるがおよそその出典は芭蕉の〈五月雨の降り残してや光堂〉にあると思ってよかろう。学生時代に誰もが目にするいわば国民の一句でありながら、そこに置かれた「や」は少なくとも〈古池や蛙飛びこむ水の音〉の「や」ほどよく用いられるかたちではない。換言すればわれわれはこの一句によって「や」が何にでもくっついてしまうことを学んだ。何にでもくっついてしまうとはいっても限度があるじゃないか、という思いが初見のころにはあったものだった。「かな」が名詞のみならず動詞・助動詞・形容詞の連体形に接続するのとはわけが違う。まさか切れ字が接続助詞にまでくっついてしまうとは驚愕すべき事実であった(ちなみにこの「や」は一般的な詠嘆のそれではなく疑問と取る学者も多い)。

あの「てや」がふたたびわれわれの前に姿を現した。なにかありそうだ。

平仮名の多い印象を受ける。「きせる」は語源がよくわからないとされているが和語化した外来語であるのはたしからしく、ゆえに「きせる」「キセル」「煙管」の三表記いずれでもよいのであるが、作者が択んだのは「きせる」の表記であった。その後の「くらやみ」も平仮名に開かれている。平仮名には浮遊感がある。中切れの前後を隔てる「てや」の不安定さとも一致する。

それともうひとつこの句は「へ」と言いっぱなしの言葉で結ばれている。かといって倒置を整叙の形に直したらこのいいさしが解消されるわけでもないのが面白いところだ。上部もまたいいさしなのだ。意味としては「秋のくらやみへ」「きせるの火向け」るのだが、それならば「て」は書かれる必要はなかったではないか。この句が〈きせるの火向けるや秋のくらやみへ〉ではなく〈きせるの火向けてや秋のくらやみへ〉である必然性があるとすれば、それはこの句が浮遊したもののてざわりそれ自体を再現しようとしているからに他ならない。幾重ものしかけで述べられようとする、闇に向けられる火。作者が目撃した火はこのようにして捉えどころなくあやしく言葉に定着したのであった。

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