【八田木枯の一句】
信子逝く湯ざめの思ひして淡し
角谷昌子
信子逝く湯ざめの思ひして淡し 八田木枯
第六句集『鏡騒』より。
八田木枯の師山口誓子の句集『激浪』(昭和21年)の季語分類と論評を行ったのが桂信子であった。自分の師、日野草城の許しを得て、信子は果敢にこの課題に取り組み、膨大な数の季語を分類して次々と誓子作品を鑑賞する。その仕事をまとめたのが信子の『激浪ノート』である。(『山口誓子句集激浪 付「激浪ノート」』邑書林 H11 参照)
信子は『激浪ノート』に、誓子のことを最初は作家として「尊敬するが好きにはなれな」かったと記す。ところがその印象は『激浪』を読んでひっくり返った。「平易な語句、簡単な用語」を用いた作品は、それまでとは劇的に違っていた。「自己凝視」による孤独な作家の営為によって「拡がりから深さへの転換」「自己のいのちとの格闘」がなされていると深い感動を覚えるのである。
私が木枯から『山口誓子の100句を読む』の執筆を依頼され、木枯にインタビューした際、誓子の戦中・戦後の三部作とも呼ばれる『激浪』『遠星』『晩刻』をその生涯の多くの句集の中で、最も高く評価すると言っていた。また木枯は、桂信子についてある評論家に、信子が『激浪ノート』を発表した当時、俳壇で知名度があったかと問われて、『激浪ノート』によって知られるようになったと答えている。
信子は誓子俳句を研究することによって、その文体や骨法、表現力を身につけていった。『激浪ノート』執筆が女流俳人として世に出る機会となったのだ。そんな信子の俳人としての歩みを見つめてきた木枯にとって、2004年12月16日の信子の逝去はことさら感慨深いものだったに違いない。
木枯は信子の死去に際して〈信子逝く湯ざめの思ひして淡し〉と詠んだ。誓子から多くを学び、同じ関西出身の俳人として強い共感を覚えていた信子の死去は、木枯にとって大きな喪失感となり、背筋にうすら寒さを覚える「湯冷め」の実感でもあった。
木枯は同時に〈白菜の断面桂信子の死〉とも詠んでいる。白菜を真っ二つに断ち割った「断面」の見事さに、信子の俳人としての潔い生き方を象徴させている。俳壇の流れに迎合せず、己の姿勢を貫いた一人の作家に対する最高のオマージュと言えよう。11月に生まれ、12月に逝去した信子には、寒さに鍛えられた一本の背骨があり、その生涯の支柱となっていた。
2016-11-13
【八田木枯の一句】信子逝く湯ざめの思ひして淡し 角谷昌子
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