2017落選展を読む
4「今泉礼奈 熱がうつる」
上田信治
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白木蓮や病院の窓ひとつ開き
蜂蜜は光溜りや春の風邪
作品とは「あこがれ」なのだ、と考えてみる。
つまりなにか「いいもの」を作って、自分(と世界)に贈ろうとするわけだけれど、その「いいもの」は、無限に遠くあって、まだ自分のものになっていないものでなければならない。
それが「あこがれ」なのだ、と。
(どろどろのげちょげちょの作品も、誰かにとって必要な「いいもの」あるいは「おくすり」として「あこがれ」られているはずだ)。
「白木蓮」の句。はくれんが咲くむこうに病院があって、ひとつだけ窓が開いているので、そこに心が行ってしまう。見上げている人は「病院から外を見ている人」の心にあこがれている。
あるいは、風邪の人が、テーブルか棚にある「蜂蜜」のびんを見上げているという「あこがれ」。
春から夏の光線、あたたかさ、上向きの視線といったモチーフが繰り返しあらわれる50句だ。
風船を朝の光の滑りをり
若楓薄く冷たく光りけり
葉桜や友ほつそりと欲少な
挙げた句は、みな、明るいものに、かすかなマイナス要素を組み合わせて構成されている。テクニックとして使えば、単調になるし、意図を見透かされるけれど、これらの句は、マイナスとも言えないほどのかすかな陰りを得て、それが心理的な具体性や奥行きになっている。
「風船」の句。光の動きが意識されていることから、朝早く、部屋にころがったそれを(なんなら布団から)見ている場面を思った。
「葉桜」の句。この人は、その友だちのことを、とても「いいもの」だと思っている。自分は、それほど、ほっそりともしておらず、欲も少なくないのかもしれない。葉桜の、生命力とか光とか影の要素が、自分と友だちに行ったり来たりしながら、分けもたれている。
春暑し手鏡に顔収まらず
退屈な顔が窓辺に花は葉に
陰りが可笑しさに転化したような句に、両方「顔」が出てくるのは、なんなんだろう。可笑しい。
この人は、あたたかく好ましい、この世の「いいもの」を価値として書いている。
しかし書かれたものは「いいもの」そのものではないので、受け取ってもらうためには、それが「あこがれ」の高さにまで高まっていなければならない。
その抽象性のレベルを得ているかどうかが、作品になっているかどうかの分かれ目だ。
白木蓮の木の黒々と曇りけり
遠雷や浮世絵のみな肌白し
白日傘に囲まれ歩く男かな
構図で書かれている句がいくつか。それぞれいい句だけれど、この人にとっては、その「いいひと」性を押し進めることのほうが、遠くまでいくという意味で、チャレンジなのではないかと思う。
あをぞらのけふを愛して山法師
ふらここのおくれてひとつ高くゆく
明るいばっかりの絵に見えるじゃないですか。でも「山法師」ったら、暗い植物ですからね。ああ「あこがれ」ているなあ、いいなあ、と思った。高くゆく「ふらここ」のあぶなっかしさも、ふくめて。
2017角川俳句賞「落選展」
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2017-12-31
2017落選展を読む 4 「今泉礼奈 熱がうつる」 上田信治
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