【句集を読む】
海月の光景
花谷清『球殻』の一句
西原天気
俳句が因果を嫌うのは、それではなにも新しいことが起こらないからだ(少なくともそれを因果と認める読者たる私にとって新しいことは何も)。それはもう知っていることだから。
くらげ縮むたび月光の遠くなる 花谷清
くらげが海中で身を伸縮させること、月光の距離、そこに因果はない。出来事としての前後も経緯もない。景色としての美しさ以外に、ここに書かれていることはない。
この美しい景色は、もしかしたら知っている景色かもしれないが、この句を眼前にするまではさしあたり見たことはない。その意味で、読者たる私のなかに、新しいことが起こったことになる。
くらげが「海月」とも表記されることが背後で響き、この句を多声的(ポリフォニック)にしている。
一方、月ではなく月光が遠くなるという事態についてはどうだろう? 光の遠近は、くらげの収縮と、読者の景色の中で同期する。この句が静謐なのに動的なのは、それが理由の一つだろう。
もっとも月光が遠のく事態は、月そのものの距離感も伴う。その意味でも多声的だ。
掲句は花谷清句集『球殻』(2018年5月24日/ふらんす堂)より。
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