2008-04-27

林田紀音夫全句集拾読 015 野口裕


林田紀音夫
全句集拾読
015




野口 裕




「ひろいよみ」を、「すてよみ」と読んで下さる方がいる。考えてみると、「ひろいよみ」には、ひろうものがあれば儲けものというさもしい根性がある。すてよみは、そんなさもしい根性のない分、いさぎよい。どうも、「すてよみ」の方が面白いような気がしてきた。


獣皮累々と日を享け不意のひとり

皮なめしの現場に迷い込んだおもむきらしい。前後に関連した句はない。あるいは幻想か。人の出現に不意を打たれる不思議。


月光に痩せてはるばる風呂へ往く

作者の意図せざるユーモア。あまりに「月の砂漠」に似ているから、やはり意識的なものか。「隅占めてうどんの箸を割損ず」よりも、好きだな。


飢餓の手が無数に生える砂きらめき

飢餓体験はすでに過去の出来事になっている。とは言え、思い出すと止まらない。『一握の砂』から、時代は遠く隔たり。


  

第二句集『幻燈』、最後の章「綾とり」(昭和45~47年)に入る。

幼女から百の手が出て雲泣く昼

この前の句が、「綾とりのくらがりの子を残して死ぬ」とあるので、「百の手」が綾とりの動きと容易に想像できるが、ぱっと眺めたときにまずこの句が目に飛び込んで、幼女がそのまま「雨降り千手観音」の幼虫のように思えた。こういう場合、幼生と書くのが正しいのだが、うごめく感じが幼虫と言いたくなる。また、そのようないわれを持つ仏像でもあるのかどうかは知らない。

だが、「昼」が蛇足だろうし、前の句がそうした想像を消してしまう。紀音夫の、決して観念には走ろうとしない正直さが裏目に出ている。

以前に取りあげた紀音夫の句に対する鈴木六林男の発言は、要約してみると「言葉が、言葉を恨んでいる」となるだろう。最近、その言葉を反芻しつつ読んでいる気がする。ここでは失敗しているだけに、「言葉が、言葉を恨んでいる」典型がかえって現れているのではないか、などと考えてしまう。


  

アマチュアだから何をやっても良い。と思い切って、俳句、短歌、詩と手当たり次第にやるようになってからほぼ二年が経過した。昨日は詩誌『Melange』の合評会に参加した。短歌の会とも、ぶつかっていたが、会場が家から近いところが魅力。

『Melange』の編集長、寺岡良信氏の作品がいつもながら俳句と詩の接点を感じさせて刺激的である。


伝説   寺岡良信

溺谷の淵で夕陽を拾つた
銃眼の底で月光を拾つた
霧氷を泳いできた馭者の嗚咽も
今日腑分けされる白鳥の吐息も
遠い故国のリラ冷えの甌ほどに
つめたい
曉が地に命じてとどけた泉に
沐浴せよ屈葬の囚人たち
曉は伝説を燃やす青い焚書の炎
オリオンは磔刑のまま頤の奥に
無垢なわたしを射る



思わず、林田紀音夫の

  いつか星ぞら屈葬の他は許されず

を意識したかをたずねると、十分意識していたとの答だった。

「無垢な」の部分に疑問もあるが、全体としては見事な詩になっている。俳句から離れて俳句と出会う。いつも、不思議な体験をさせてもらっている。




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