島田牙城 選と選評
3点=07 気分はもう戦争
2点=16 昼の月
1点=10 ぽろぽろと
選評
二十二編を一読して、俳句を作りこんでゐる人とさうでない人の作品は歴然としてゐた。作りこんでゐる人の作品が滑らかなのに対して、さうでない人の作品はぎこちなかつた。しかし、滑らかな作品がいいのかといふと、けつしてそんなことはないのであつて、器用だけれども実がないといふ場合もある。
五・七・五定型は与へられてすでにそこにある道具なのではなく、自らが磨き上げてゆく道具なのだといふことは、肝に銘じてもらひたいし、通読したあとに自らの戒めの思ひとして痛感したことだ。
さて、はじめに残したのは六編。
01 07 09 10 13 16
01はそこそこの冒険もしながら、破綻の少ない詠みぶりで好感は持てた。「渋滞の」「熱もてる」「夕ぐれの」「桔梗の花」「カーテン吹かれ」に○を打つてゐる。しかし平均点なんだなあ。ぐいと僕を引き付けるものが無かつた。
13は○を打つたのは「交番のあたり」と「菜の花は」の二句にすぎないのだけれど、この作者の屈託の無さは買ひだなと思つた。ただし「略奪愛」一句による減点は大きい。
といふことで、この二編を先づ選考から落とす。
残る四編を何度も読んでいくうちに気付いたことがある。四編とも客観の眼が利いてゐるといふこと。冷徹に物を観察する視線が、自づと俳句の語彙に力を与へるのかも知れない。10には「私」「わたし」といふ一人称が二度も出てくるし、「つけまつげ」「頭蓋骨」「頭」だつて、この「私」のものに違ひないけれど、この「私」は作者なのかいと問はれたら、僕は違つてもいいといへる。詠む段で作者が作者自身を客観したのか、他者を「私」として詠んだのか、まつたくの想像上の「私」だつたのかは詮索しないが、この一編の「私」は創作上の「私」に成りえてゐる。その上一句一句が面白い。
蝶の眼の中でわたしが裏返る
に最も想像力を掻き立てる力があるが、「卒業期」「水槽に」「ぽろぽろと」「春の夕暮れ」あたりも、先行する句があるとしても一定レベルを獲得してゐるであらう。
悩んだのは16と09。悩んだ末に09の「ことごとく」「あをあをと」「ごちやとして」「かすかなる」などの措辞が引つかかることを難点として落とすこととした。09では「爛春の」「カーテンの」「尻のせて」に○を打つてはゐる。
16にはさうした安易に形容語にながれるといふ欠点がない。その上、
受刑者の横一列やクリスマス
雨傘を乾かしてゐる春の宵
コンタクトレンズにあふれ春の水
などには一種の風格すら漂つてゐる。よつて選に残すこととした。
最後に、三点を与へることとした07「気分はもう戦争」について触れねばならない。すごく荒い句たちである。「テスト全部満点」「リプトン紅茶永遠に」なんて、手元のコピーには大きなバッテンを付けてある。そのうへ、タイトルが悪すぎる。タイトルといふのは致命傷になりかねない。しかしそれを補ふに足るパワーを、この作者は内面に蔵してゐるやうだ。
開戦ぞ身近な猿の後頭部
ひろびろと乾くや印刷用の烏賊
竹やりに名前を彫りし彫り師かな
戦場を先づくちびるがもげてゆき
逃げまどふ防空づきん赤づきん
僕は五・七・五の定型感を習得するよりも、季語の本意を身に付けるよりも、なによりも、今何を書かねばならないのか、その書くべき「何」を持つことのはうが先だと日ごろ言つてゐる。その「何」かが俳句の語彙にパワーを与へるのだと思つてゐるから。この07一編には、そのパワーを感じたのである。
荒くてもいい。俳句といふ磨きうるその器を壊すほどのパワーこそ、俳句を手に入れてまだせいぜい数年であらう作家たちには望みたい。
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