2009-02-08

島田牙城 靴下の匂ひ 10句


週刊俳句第94号 2009-2-8 島田牙城 靴下の匂ひ
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2 件のコメント:

  1.  今の時代、動画はどこにでもあるのですが、動くものを静止させてしまう写生画や写真もあって、それはそれで価値ある映像を提供してくれています。
     しかし、動画なき時代に子規は、短歌は時間、俳句は写生、というようなことをいっていました。そのせいかどうか、俳人の皆さんは多くの場合、何でも静止画にして認識する傾向にあり、動画的認識が苦手で、静止画=「瞬間」ではない動画的時間を、俳句に取り込むのが苦手ではないか、と思います。そう思いつつ、次の句

      耕してゐるうしろ側月通る

     を拝読しました。「月通る」が凄い、まず。
     月は動きます。そのことを私たちは知っています。しかし、月が動いていることを、私たちの視覚はとらえることができません。月は私たちの視覚では、常に静止画です。テレビ画像でそれを見ても、よほどのコマ落としにしなければ、月の動く姿を眼で見ることはできません。だから、「月通る」は、眼に映る「瞬間」という静止画ではなく、眼には映らない「時間」というというものの動きを、視覚化することに成功していると思えます。
     だから、「耕してゐる」も動画ですが、「月通る」がとりわけすごい。
     また、季語の取り扱い、「耕す」は春、「月」は秋の季語です。ただ、「月」は「通る」ほどのすごい動きのある「月」ですので、秋の月とするわけにはいかず、春と秋を跨いで「通る」月、つまりは無季化された月なのでしょう。季語は眼の前の「空間」に属します、しかし、無季化は、その視覚的空間から超脱し、「時間」をほしいままにし、動画化します。そこで、「月」は、「光陰如箭」の「光陰」の象徴であるかと思います。

      耕してゐる(人の)うしろ側月通る と読むべきか
      耕してゐる(私の)うしろ側月通る と読むべきか

     私は、「私の」と読むのがよいと思います。「月通る」は眼ではなく、脳によって認識されるものだからです。

      撫でてをるのは春水のおもてがは

     この句は、春水の裏側への意識が働きます。春水の「おもてがは」は、きらきらと写真のようでもありますが、裏側では、滔滔と時光流逝。俳人は多くの場合、春水の「おもてがは」をそれとは知らずに撫で、写生するだけですが、この句は「おもてがは」とあるので、句の主眼は「裏側」=時間であるのでしょう。写生的認識が捕らえる「空間」の裏側にある「時間」が頭に浮びます。

      山頂の落ちさうな岩春立ちぬ

     「落ちさう」つまりは「落ちない」=停止。動きを止めている力と春立つという動く力。そのふたつのベクトルが働いて、動こうとする力がこもります。

      胸中の水は沸かずも梅開く

     「沸かず」と「開く」の対比で、「開く」という「動き」が、静止画ではなく描かれている感じがします。

     玉句拝読し、感服しました。しかし、

      靴下の匂ひと思ふ春の泥

     に触れることができず、すみません。

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  2. 獅子鮟鱇さま
    長い感想を頂き、感激しております。
    有難うございました。

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