【週俳10月の俳句を読む】
生駒大祐
無限期間有効の「保証書」
わりと無邪気に、前書は「現実」だと思っていました。
俳句は二重の意味で虚構です。つまり、「作者にとって俳句により立ち上げた景は必ず『作者にとっての』現実を反映し且つ必ず『作者にとっての』現実との齟齬を含む」という一次の虚構性があり、また「読者にとって俳句から立ち上がる景は必ず『読者にとっての』現実を反映し且つ必ず『読者にとっての』現実との齟齬を含む」という二次の虚構性が俳句にあるからです。
その上で、前書には一次の虚構性が存在しない、作者にとっての「現実」を忠実に反映したものなのだと思っていました。
わりと、無邪気に。
しかし、高山れおなさんの『荒東雑詩』を読んでからその考えは覆りました。というよりも、『荒東雑詩』を「面白い」と思ってしまってからは前書の一次の虚構性に無自覚ではいられなくなったのです。
前書を括弧付きの「現実」だと思って読むことは一つの約束です。それは本格推理小説において地の文で嘘を吐いてはいけないのと同じです。そしてそれは『荒東雑詩』においても違いません。『荒東雑詩』における前書をただの詩だと思って読んでしまうのはもったいない。それをあえて「現実」だと思い、その作られた括弧付きの「現実」の地平面に立って「傾いた」俳句を読むのが面白いのです。
本格推理小説の地の文に「書かない自由」があるのと同じく、俳句の前書には「気づかないふりをする自由」があります。前書の一次の虚構性に気づきながらも、そ知らぬふりをして俳句を読む。前書は読者の「現実」を制御し、操作し、指定します。
そんな読み方で今月の週刊俳句の前書のある俳句を読んでみます。
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(ベルゲン急行最高地点)
あれは雲否雪渓なりしわづかに見え 村越敦
僕はよく観覧車に乗るのですが、下から見上げてどの車が最高地点にあるかは判っても、実際に乗ってみるといつの間にか「どうやら最高地点は過ぎてしまったな」と思うことになってしまいます。それはおそらく急行でも同じでしょう。それがなぜ「今が最高地点だ」と判ったのでしょうか。事前にガイドブックなどで情報が与えられていたとも考えられますが、僕は「車内放送」だと思って読みました。走行中か駅到着中に突然「ここはベルゲン急行の最高地点だよ」と教えられ、慌てて窓の外を眺める。冷え切った窓に顔を近づけると遠くに白いものが見える。
あれは雲否雪渓なりしわづかに見え 同
そして、列車は動き、最高地点を去る。もう雪渓は見えません。
この句の早口のリズムが、その突然の情報に起因する焦燥感を表していて、とても面白い句になりました。
(豪華客船の船底の部屋、ウオツカ嫌いのロシア男と同室に)
甲板に石炭匂ふ銀河かな 同
僕は初対面の人と一緒の客室に泊まったことはありません。しかし、もしそんな機会があったなら、まず相手に何を聞くでしょうか。いきなり嫌いな酒が何かを質問することはないでしょう。旅の高揚感からか親しく船室の同居人と様々なことを話し、ふと「飲まないか」とウオツカを差し出す。相手はロシア人ですし。すると、「いや、俺はウオツカ嫌いなんだ」と言われます。変わった男。そこからまた話は弾み、夜も更けてくる。「そろそろ寝ようか」「それも良いが、せっかくだから甲板に出てみよう」。甲板に出てみると、空は一面の星。見上げていると微かな石炭の匂いが鼻を突きます。
甲板に石炭匂ふ銀河かな 同
「石炭って臭いんだな」「興ざめなこと言うなよ。変な男だな」
・・・
以上、前書を信じて句を鑑賞してみました。
よく引用の際に前書を排することがありますが、僕はそれに反対です。前書は本体の使い方をマスターすればいらなくなる、単なる「説明書」ではありません。句の読み方を補完し、保証してくれる、作者からの無限期間有効の「保証書」であると僕は思っています。
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