俳枕13
池田と日野草城
広渡 敬雄
「青垣」13号より転載
池田は、北摂津の要の位置にあり、万葉集にも詠まれた五月山(大阪府内有数の桜の名所)を擁し、近世は西国街道、能勢街道の交わる市場町として栄え、酒造業でも名高い。
阪急電鉄の開通後は、大阪の有数の住宅地となったが、平成十三年の不幸な池田小学校殺傷事件も記憶に新しい。
池田とや名乗る天下の炭がしら 西山宗因
夏布団ふはりとかかる骨の上 日野草城
初花や天地俄に甲斐甲斐し 鈴木貞雄
土用芽や池田小学校しづか 大島雄作
日野草城は、明治34年東京下谷生れ、第三高等学校時代に虚子に初見し、京大三高俳句会を結成。才気煥発、鋭利な感性で頭角を現わし、ホトトギス雑詠巻頭、26歳で虚子の序文の第一句集「草城句集(花氷)」を上梓し、28歳でホトトギス同人。
従来の俳句にはない都会の風景、哀歓を詠い、端正で颯爽とした容姿で一世を風靡。
昭和9年「ミヤコホテル」連作十句で俳壇の物議をかもし、同10年には、無季俳句も容認する新興俳句系の「旗艦」を創刊主宰。同11年には、虚子の逆鱗に触れ、吉岡禅寺洞、杉田久女とともにホトトギスを除名された。
桂信子、伊丹三樹彦等を育成するも、同12年頃から俳壇への弾圧(京大事件等)のため、健康上の理由で俳壇を離れた。終戦直前には、戦災により、家財道具、蔵書一切を焼失した。結核等の長期療養で同24年には、永年勤務した大阪海上火災を退職し、池田市石橋駅近くに建坪十二坪の家を建て、「日光草舎」と称して「青玄」を創刊主宰、亡くなる迄の六年間、病床生活の中で俳句のみに没頭。
掲題句は、布団に臥したまま、愛妻晏子と「青玄」を読む有名な写真を髣髴させる。逝去一年前には、虚子の見舞いを受け、ホトトギス同人に復帰した。
春暁やひとこそ知らね木々の雨
ものの種にぎればいのちひしめける
かいつぶりさびしくなればくぐりけり
をみなとはかかるものかも春の闇
松風に誘われて鳴く蝉一つ
切干やいのちの限り妻の恩
生涯に八句集。昭和31年1月29日逝去。54歳。
池田にほど近い服部緑地公園には、「俳句は東洋の真珠である」他無季も含めた「春暁」「松風」等五句の御影石の句碑があり、娘婿室生幸太郎編の「日野草城全句集」もある。
極端な早熟型と極端な晩成型(山本健吉)、都会的時代を詠む瑞々しい感性と戦後に於ける病床の境涯句の深い人生観照、天衣無縫の詠みぶり(桂信子)、初期の名声で判断されるという辛い立場に立たされ続けた一人の俳人の落差の大きさが心に沁みる(大岡信)等々の評がある。
●
0 comments:
コメントを投稿