煤払 新年を迎えるために、年末に、神棚をはじめ家の内外を掃き清めることを煤掃・煤払という。(講談社日本大歳時記)「煤払」という言葉はどれくらい一般的なものなのだろうか。大掃除のことを煤払などということはあまりないような気がする。それでも、夏井いつき著「絶滅寸前季語辞典」「絶滅危急季語辞典」に載っていないところをみると、そこそこ使われる言葉なのかもしれない。使うのは俳人だけかもしれないが。 しかし、畜産業界では、この言葉はごく普通に使われている。竹箒(煤竹)を大きく豪快に振り回すさまは、まさに「煤払」という言葉に相応しい。 牛舎(に限らず畜舎)には、これでもかというほど煤が溜まる。季語「煤払」の「煤」は、元来は煤煙のことだったようだが、牛舎で使われるときは、まず、蜘蛛の巣と埃のことである。 我が家のような自然換気式(ただ窓を開けているだけ)の牛舎では、外から、糠蚊や羽蟻がいくらでも入って来る。外は天の川が降ってきそうな暗闇なのに、牛舎だけが煌々と灯りがついているのだから当然といえば当然だ。それらを待ち構えて、蜘蛛もいくらでも増える、というわけである。小さな蜘蛛は小さな巣を、大きな蜘蛛は大きな巣を作る。成長に従って放棄された巣も残されていく。そこに埃がついて、膜のようになっている。 そのため、煤払も年末にだけするというわけではなく、実際には年に何度もする。それでも、年末の煤払は、正月を気持ち良く迎えるために、大事な作業であることに変わりはない。 こんなことを書くと、もしかしたら都会の方々は不快に思うかもしれない。牛舎というのはそんなに不潔なところなのかと。それも、時代の流れとして、ある意味、仕方のないことなのかもしれないとも思う。 以前、ネットでこんな文章を読んだことがある。小学生が、社会科見学の一環として、酪農家を訪問したときの感想である。その感想は、「牛乳がこんなに汚いところで作られているとは知りませんでした。ぼくは一生牛乳は飲みません」というものだった。 社会科見学の対象として選ばれるくらいだから、その牧場は、特別汚いところではなかったと思う。むしろ、衛生管理には気を使っていた方だったのではないか。それでも、このような感想を持たれてしまう。無菌室で育てられたような子どもには仕方のないことなのかもしれないが、私としてはかなり複雑な気持ちだ。 俳句の世界も、美しいもの、叙情的なもの、そういう情景が対象となることが多いが、写生という手法によって、ちょっと目を背けたくなるような光景もたくさん詠まれている。これからも、美しさだけが詩的なものではなく、どんなものにも詩がある、という俳句の世界であってほしいものだ。 まつしろに花のごとくに蛆湧ける 髙柳克弘 髙柳克弘さんのような、いかにもスマートな若手俳人(お会いしたことはないので、イメージだが)が、こんな句を作っているということに、安堵したりしているこの頃である。 牛の背を払ひて了る煤払 牛後 ●
2011-12-25
牛の歳時記 第3回 煤払 鈴木牛後
【不定期連載】 牛の歳時記
第3回 煤払
鈴木牛後
牛はいよいよ黒かれとこそ煤払 正岡子規
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