川を渡つて
堀本裕樹
冬帝や捕虜のごとくに壁に立ち 山田露結
「捕虜」とは、戦争などの状況下で敵に捕まった者を指すが、それのごとく壁に立っているとはどういう状況なのか。実際の「捕虜」には敵がいるが、この句には明確な敵が見当たらない。あえていうなら、冬の帝に捕まったということか。しかし、私には身体的拘束ではなく、心理的な何かに捕らわれているように思えた。抑圧された不安のごときものに壁際まで追い込まれ、理不尽にも「寒さ」に耐えているのだ。季語「冬帝」も含め、象徴性の高い措辞で構成された一句。
年の夜も川を渡つて帰るかな 阪西敦子
何気ない句だが、「年の夜」の季語がよく効いており、「も」の助詞が大晦日の夜も日常の延長線にあるという認識を読み手に感慨をもって伝えてくれる。川を渡って帰るのは、もちろん徒ではない。電車で鉄橋を渡ってゆくのだろう。薄暗い川の流れを車窓から眺めながら、「年の夜」からもうすぐ新年に移ろうとする刻の流れに思いを馳せているのである。「帰るかな」の詠嘆にその思いが極まった。
三島忌の吊り輪鉄棒床運動 太田うさぎ
三島由紀夫の忌日は、1970年11月25日。この句を読んだとき、三島のボディビルで鍛え上げた筋肉が、「吊り輪鉄棒床運動」をする体操選手の筋肉の律動と重なった。本来細身かつ腺病質であった三島は、ある時期肉体改造を行った。その人工的な肉体と体操選手の軽々と種目をこなす肉体とが、不思議に響き合って俳味を生み出している。
対岸のけむりはげしき焼藷屋 津久井健之
面白い句だと思った。果たして対岸の焼藷屋は大丈夫なのだろうか。「けむりはげしき」は尋常ではない。それとも、焼藷屋の釜は、藷を焼き上げる段階で激しく煙が出る一時があるのだろうか。そのへんのところはよくわからないが、対岸で見ている者にとっては、とにかく大丈夫かと案じてしまう。焼藷屋のその後はどうなったのだろう。
●
0 件のコメント:
コメントを投稿