2011年の句集を読む
五十嵐秀彦
今回偶然元旦が週刊俳句更新の日となり、時評の当番がそこに当たってしまった。
そのためこの原稿を書くことに、どこかソワソワした気分になってしまっている。
とりあえず新年の挨拶がいるのかな、とか。
新年おめでとうございます。
みなさんはどんな元日をお迎えのことでしょうか。
今年がみなさんにとって良き一年であることを祈ります。
というような具合で。
それはともかく、2011年は3月の震災以来国家そのものがおぼろになってしまったような日々が続いてしまった。そんな中にあっても俳誌は出続けるし、句集の出版もいつものように多かった。
新しい句集についてはできるだけ読もうと思っているけれど、はたしてどれだけキャッチできただろうか。
今回は2011年に出版された句集の中から4冊をとり上げてみたい。
●興梠隆 『背番号』(角川書店)
著者は1962年生まれ、「街」同人。
「街」の今井聖主宰が丁寧な序文を書いている。
《俳句は自分の感動を詠うということが第一義なのではなくて読者を「感動させる」「気づかせる」ものであること。つまり俳句は詠うものではなく書くものだという意識が徹底しているのだ。感動の類型性というのが隆さんのもっとも嫌うところである》今井聖この句集の特徴を上手に表現しているのではないだろうか。
ここに収められた句に難解なものはない。けれど何か非凡なものを感じて、次々と読み進みたくなるのだ。おそらく読者は平凡な日常を非凡に詠う句によってその読みを試されているのである。
だから、今井聖の言うところの「すべて実験句」というのは的を射ている。
土壁の中に竹ある朧かな
人に道問はれてさみし養花天
春風や仮設便所を積んで去る
沈丁や「叔父さまったら」といふ字幕
文月のロシア切手にガガーリン
背番号浸して秋の水重し
こうした句に感じる共感、というか既視感に似た思いは不思議だ。
既視感というのは類想という意味で言っているのではなく、自分が過去どこかでこの句に詠われている光景を見たような気分になるということだ。
「あなたがあのとき見たものはこれでしょ」と言われているように感じるのだった。
おそらく読者の多くがそう思ったのではないか。
言い替えればここにある句の風景はありきたりなのである。だから「見た光景だ」と思うのである。
しかしそれがけっして凡庸に思えないところがこの作者の特異なところだろう。
ありきたりなモチーフから俗に落ちることなく、人の心に忍び込む直観的な表現が冴えているのだ。
●西原天気 『けむり』(西田書店)
八田木枯の帯文が秀逸で、まいった。
「勘のいい実作者」というのもそのとおりだし、「読後、気分が駘蕩として煙に巻かれたようになるのも、天気俳句の見せ場」というのも全く同感である。
内容に触れる前に帯文をほめるっていうのはいかがなものか、と自分でも思う。けれど帯が付いていると、どうしても真っ先にそれを読んでしまうものだから、やけに素敵な帯文で飾られた瀟洒なこの句集に羨ましささえ感じてしまった。
蓮ひらく下にたつぷり暗い水
まだなにも叩いてゐない蠅叩
対岸に犬の生活見え晩夏
くるぶしをならべて花の夜なりけり
かき氷この世の用のすぐ終る
上田信治が栞に「うっかり俳人と呼ばれたら一生の不覚と思うような人」と書いているのを読んで、そういえば以前「俳人」という呼称のことでそんなやりとりをしたことがあったのを思い出した。
私は「俳人」などという呼称は所詮記号に過ぎないので逆にいっこうにかまわない派なものだから、西原さんはなにをそんなに気にするのかと思ったものだ。そんなところからもなにかしら自分の価値観への上田氏の言う「ケッペキさ」というものを西原天気のイメージとして持っている。しかし、それも氏はことさら声を大にしてというのも嫌いな様子で、それがどこかしら私には「都会的な自意識」に見えるのだ。
野放図なようでいてとても繊細、というのが私の持つ西原天気像である。
レコードの溝の終りは春の雨
まつくろに夜を匂へるかぶとむし
本性を出さないある種の上品さ、それが詩の楽しさとのバランスをとっていて、なるほど煙に巻かれたような読後感があるのだ。
●青山茂根 『BABYLON』(ふらんす堂)
着陸のための枯野を探しをり
青山茂根は空に浮いている。この句集を読んだ印象がそれだ。飛んでいるというのとは少し違う。浮いているのだ。好んで浮いているのでもなさそうだ。かと言って居心地が悪いというのでもない。地面から数メートルほど浮上している作者は、地上の人間とは少し違う光景を見ている。
ビル街を砕氷船の往ける幅
塔あらば千の虫籠吊るしたし
超低空飛行クローバー探すため
そんな茂根世界を中原道夫は「帰るべき処を喪失した悲しみ、戸惑いを主題にしている」と捉えている。
帰るところの喪失ということを思うとき、この句集に限らず詩というものは多かれ少なかれ「故郷喪失」の思いに裏打ちされているのではないかと気づく。実際追放者としての自覚なくして詩の道に入る人は稀だろう。
詩を書く欲求というのは、帰るべきところが無いのに帰りたがっている思いであり、それは母の胎内に戻りたがって泣く乳児のそれに近い。
現代詩であれ、短歌であれ、俳句であれ、詩を詠みたいという願望はこの世に生を享けたときの断絶感とともにあるのだよなぁ…とか思いつつ、この句集を読み進んでいくと、どの句にもそうした精神的な渇きがあるように感じるのだった。
西瓜割れば赤き夜空と出会ひけり
万華鏡の中を旅せば夜店かな
鍵失ひて空蟬へ帰れざる
ママンと同じ香水の男なる
地上に降りてこない(こられない)作者は否応もなく国境を越えるのだろう。
楽しい旅なのかどうかはわからない。どこを巡っても、地上には降り立てない詩人の魂が、ひそひそと泣いているのだ。
プール入る前に人種を問はれたる
ドル建ての水をあがなふ星月夜
●関悦史 『六十億本の回転する曲がった棒』(邑書林)
年末に出版され話題となっている句集だ。
表紙絵のヒエロニムス・ボッシュの絵といい、不必要なまで長いタイトルといい、‘70年代風だなぁ、これが作者の趣味なのかしらん、とか思い生年を確認すると’69年生まれなので、少なくともあの時代を肌で感じとっていた世代ではない。
著者のあとがきにル・クレジオの名があったり、作中にもアントナン・アルトーが出てきたり、私としては妙になつかしく親しめる道具立ての句集なのだ。しかし、どうやらそうしたことは関悦史を読み解くのに何の役にも立ちそうにない。
ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足
木造アパート和姦の悲鳴漏れて秋
AVの自販機ほかは冬の闇
第Ⅰ章の「日本景」は全句ここに書き出したくなるほど個人的には好みの句ばかりだった。ふわふわとやわらかくてやさしい句が多い最近の傾向の中で異彩を放つこの「硬派な前衛」ぶりは、懐古的でもあり新鮮でもある。
作者にとって旧作である第Ⅱ章の「マクデブルクの館」はカタカナ混り文で書かれており、この手法は他にも前例はもちろんあるけれど、見ただけで異様な印象を受けた。まるで明治時代の役所の公文書のようにも見える。
仮名の歴史でもカタカナはひらがなと異なり漢字に寄り添ってきた表記であって、文章を厳めしく権威的にかつ男性的に見せることに一役買ってきたものだ。だから、こうした作品はどこかしら恐ろしい権威や権力を連想し、読んでいると息苦しくなる。
崖ヲ落ツ少年眞白キ瓦解
往診ノ主治醫鞄ニ喰ハレツツ
その恐ろしい句の表情は、第Ⅲ章の「介護」で一転する。作者の祖母を介護した経験から詠まれた作品群であり、作者の力量が存分に発揮されているように思った。
ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり
便始末されゐて夏がかなしからう
寺からもらつた瓦せんべいで一日生きる
実は「マクデブルクの館」よりこちらのほうが数倍恐ろしさがあり、闇が口を開けていて、ひらがなになった
だけ一層に肌感覚的な迫り方をしてくるようだ。
読み終えて、関悦史という人は何かと闘っているのかと思わせる緊張感と重苦しさを感じてしまった。
あるいはそれは1ページ8句というのは句集としてはずいぶん多い構成によるところもあるのかもしれない。そんなところにも関氏の格闘が見て取れる。
俳句という窮屈な詩型に上手に自分を合わせていくのではなく、どこまでも闘っているように思えるのだ。
この本を手にしたとき、安井浩司の帯文がやけに大時代で大げさなものに感じたけれど、中を読んでいくうちに、なるほどとの思いが強くなった。
《現代の叙事詩を収めるに相応しい巨大な胃腑》安井浩司人類に空爆のある雑煮かな
崩るる国の砕けし町の桜かな
●「ユリイカ」2011年10月号
最後に句集ではないが「ユリイカ」が10月号で「現代俳句の新しい波」という俳句特集を組んだことも印象的な事件だった。それが久しぶりに物議をかもしたのも興味深かった。
特に千野帽子の「二〇分で誤解できる近代俳句。」に対して、週刊俳句233号(2011年10月9日)で上田信治が痛烈な批判をしたのは正直驚いた。
私は千野帽子の意見に上田氏ほど反発するものは感じなかったため、その批判によって考えさせられることが多かったのである。
その後、千野氏がツイッターで反論していたようだが、断片的にしか追いかけられなかったし、ツイッターだとどうも言葉足らずになるのは避けられない。
この「ユリイカ」の俳句特集について期待ほどには広がりや深まりが見られなかったのは残念だった。
「ユリイカ」の特集が投げかけたものはけっして小さなことではない。もう少し議論されてもよかったのではないだろうか。
*
さて、2012年。どのような俳句、評論に出会えるのだろうか。
「期待したい」と書いて稿を終えるのはお定まりすぎると思いながらも、この二三年俳句の世界が動き始めているという実感があり、本当に心から今年は何か期待できそうな気がしているのである。
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