2012-01-15

〔週刊俳句時評55〕終焉の予測 生駒大祐

〔週刊俳句時評55〕
終焉の予測

生駒大祐


現代俳句協会青年部による雑誌Ιν Σιτυの特集、「『俳句以後』の世界」を読んだ。

「俳句以後」の定義について、宇井十間氏は総論で、

阿部完市が一貫して表明していることは、何かが繰り返す、反復するということに対する違和感である。べつの言い方をすれば、すでに答えが出てしまっている問題に拘泥するのはやめて、新しい問題を洗い出したいという意欲のあらわれであると言うこともできる。今回のシンポジウムで「俳句以後」と私が呼んでいるのは、こういう思考のことを指していると、まずは言っておきます。


と述べる。また、

現代俳人はなぜ、俳句が無条件に続いていくと思っているのか、そういう質問をしてみたい。


とも述べる。しかしその一方で、具体的な論に移ると、宇井氏は1990年代までの俳句とゼロ年代の俳句の相違点、または今後の俳句の予測について述べている。それにより、僕は「今後の俳句」と「俳句以後」の相違がどこにあるのかちょっと混乱してしまった。

その混乱は、続くパネルディスカッションのパネラーにもあったようで、池田澄子氏は、

「俳句以後」というのは、俳句から発展してもっといいものになるという意味か、それとも俳句は衰えてしまったと言われているのか、よくわからないんですけれども、もし俳句がこれで衰退するんだと言われるならば、私たちがそう言われない俳句をつくるしかないんじゃないですか。もしもいま衰退しているなら、私が俳句を蘇らせるっていうぐらいの気持ちなんですけどね。


と述べている。

***

この特集の本当に面白い部分は、おそらくは枝葉の部分にあって、それは岸本尚毅氏の「バブルがなぜ起こるか」の話であり、池田澄子氏の「さみしさ」の話であり、田島健一氏の「ゴムのゴキブリ」の話であったりする。そういう意味では問として「俳句以後」は優れていると言えるだろう。

しかし、僕にとって考える余地のあるのは、なぜ「俳句以後」の世界というキーワードに対して「俳句の終焉のかたちを予測する意見」というある意味でのストレートな返答がなぜ即座に僕ないし執筆者からでないのか、あるいは、宇井氏自身によって

私は「俳句以後」という言葉で、具体的な方式なり方法を意味しているわけではありません。そんなことを予測することはそもそも不可能なので。


と当然のように言われてしまうのか、という疑問だった。

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一般に、モノの終焉は、そのモノの定義をはっきりさせると自然と定義される。たとえば白熱灯の終焉は、白熱灯を「フィラメントの抵抗による電気エネルギーの電磁波への変換による電灯」と定義をすれば、それが別のものに取って代わられることによって行われる。それは「なんらかのもっとエネルギー効率の良い or 生産コストの低い etc. エネルギーの光への変換」と予測される。

俳句はさまざまな「縛り」を持つ詩だ。「縛り」とは五七五の韻律、季語、切れなど枚挙に暇がない。それらの「縛り」は一見俳句を定義してくれるように思える。しかし、それらの「縛り」はいずれも厳密にはゲームにおける厳密な「ルール」や物理学における正しい「原理」ではない。いわば「原則」「法則」の類のものである。

その差を述べよう。たとえば野球には「フライを野手がノーバウンドで捕球したらワンナウト」という「ルール」はない。それは「原則」であり、そこに「インフィールドフライ」などの「ルール」が加わって初めて厳密な「ルール」となる。しかし、「ルール」を知らずに野球を見ている子供がいたならば、その「原則」を「ルール」だと思い込み、インフィールドフライを見ても「何かの例外」としか意識しないだろう。

また、物理学で言えば2012年1月16日にハイゼンベルクの不確定性原理の修正式である小澤の不等式の実験的実証についての論文が発表されたばかりである。エンタングルしている二つの中性子間のスピンにおいてハイゼンベルクの不確定性関係は破られることが実証された。しかし、その「原理」が80年以上に渡って厳密な原理であると信じられてきた。

俳句の話に戻ろう。俳句において「縛り」とされているのは、それらの「原則」「法則」だ。それらは単純でわかりやすいが、それはおそらく本質ではない。だからこそ、自由律や無季俳句なども俳句であり続けている。そして、野球や物理学とは違い、その厳密な「ルール」や「法則」は存在しないのだ。いや、存在しないというより、その俳句の進化の途上にある現在、「ルール」や「原理」が正しくあるタイムスパンは非常に短く、観測困難な領域にあるのだろう。俳句がなんであるのか定義できない以上、その終焉を予測することは困難であるのももっともだ。

俳句の終焉は俳句を定義しきったときに初めてわかる。その日が訪れるのは、俳句が停滞し、俳句の真理が衆目にさらされたときだ。俳句の真理を求める作業は、同時に俳句を終わらせる作業であることを忘れてはならない。それを定性的に言えば、誰にでも「名句」が作れる手法が発見された瞬間に俳句は価値をなくすということだ。

再びこの言葉で稿を閉じる。

現代俳人はなぜ、俳句が無条件に続いていくと思っているのか、そういう質問をしてみたい。

宇井十間


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