2012-03-18

ノイズのこと 竹中宏

ノイズのこと

竹中宏

「俳句界」2007年11月号掲載



写生についてのはなしである。

先日のある合評の席でのこと、 Aさんの透明な妻をたたえた句集が、粗上にのぼせられた。巨細にわたり、さまざまな角度からの吟味がなされたが、そのとき、F氏が、「すくなくとも、これは写生的といえない。写生には、もっとノイズがふくまれているはずのものだ。」という趣旨の意見をのべ た。 写生にかなうか否か、それがAさんにとって身にこたえる問題提起となったかどうかは、ちょ っとべつの話題としておく。

わたくしがF氏のこの発露をつよく耳にとどめたのは、めずらしく、それが、写生の核心をなす部分についての認識をかたっていたからである。

「写生」 の概念は、論者の、いや、作者のつごうしだいで、その内包を、曖昧に、どこまでも拡散してきた気配である。百人の俳人に百人の写生理解があるという状況は、いちがいに、否認さるべきものでもない。ただ、現場でのルースな展開過程が、ある原初の記憶を、つまり、写生が本来なぜ写生であったかの記憶を忘却することで可能となったのも事実である。

一句の表現内容に、具象性が確保されていること、あるいは、うたわれる事物相互の関係が日常の秩序を蹂躙していないこと、これらは、今日、写生といわれるものの一般条件であろうが、はたして、当初、それらがなによりも優先されなくてはならない写生の属性であったか。単純にそうだといってしまうと不都合となるケースを、 周知のように、俳句史に多々見いだすことができる。

西洋画論の示唆をうけて出発した経緯から、写生をもっぱら視覚上のことがらとして説明するのが通例であるが、この説明で間にあわせては、俳句において写生体験がどのように成立するか、その肝腎のポイントがにげてしまう。

おそらく、俳句は、写生という方法をとおして、事物の外形のなぞりでなく、観念への従属化でもない、世界とのいきいきとした接触をもとめたのである。

そのとき、写生の「生」とは、まさしく「ナマ」であり、「イキ」であって、だから、存在の石化し、時間の停止 した、いわゆる「死」の世界と対立するはずのものであった。つまり、生きている世界との連関のなかで、みずからが生きてあることを確認しようとする思想である。

そして、生きている世界は、無数の生きている事物の巨大な集合であり、事物はそれぞれが生きていることの気配を発散しているのだから、世界はふかいざわめきのもとにある。

生きていることのざわめきは、これを今日ふうにいえば、抽築化と数理化の支配にあらがうノイズとして、世界にみちていて、事物から削ぎおとせば、 ただの静物(スティルライフ)だけがのこることになる。

写生は、事物を、その内部に包蔵され、 表面に滲出し、周囲からそれをくるみこんでいるノイズの網目ごと、そっくりとらえたいのだ。 合評でのF氏の発言は完結ではあったが、それが背後にふまえるはずの理路を、およそ右のように推察して、ふかくうなづかせられたわけである。

たとえば「林檎」という語は林檎一般をさすものであり、 そこには記号としての抽象性が実現している。 言語によって、しかも、俳句という短詩形の枠内で追求される写生が、 きわめて困難な作業ではないはずはない。あきらかに、俳句の詩形が写生をよびよせたのではない。

わたくしたちの先行世代が、写生体験で得られるものの定着に、最大の表現価値をみとめたから、つまり、そういう時代精神だったから、 無数の作者によって、営々と、「写生俳句」への厖大な挑戦がつみかさねられたのである。

それにしても、その圧倒的多数が無視できる句だとすると、写生を易行道視するよくある理解に、かくべつの根拠もないといえる。また、対象を本質においてつかみとるのだとばかりに、するどく、純一に、あるいは、せつなく、感覚の洗練を主張することが、写生の「進化」にあたらないだろうと、 F氏の言は、そんな見識をふくむもののようであった。

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