2012-03-18

写生について 関悦史

写生について

関悦史


子規にとって写生は、放置すればどんどん月並み化していく固定観念的なものの見方を取り払い、世界の細部と生気を素手でつかみ取るような方法として意識されていた。

それは先行テクスト群への批判という歴史的意義と位置付けを持つものであるが、それと同時に、感覚によって組織される質料の連続としての世界から、情報として何をどう作品に取り込むか、その選別・編集・構成作業を通じて、小さく固定化した主観から主体を解放し、大きな客観世界と有機的な関係をとりむすぶ現場としてあった。そこにまたこの方法の潜勢力もあったはずだ。以下のよく知られた一節で語られているのはそうしたことである。

《写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この 手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。(中略)画の上にも詩歌の上にも、理想といふ事を称へる人が少くないが、そ れらは写生の味を知らない人であつて、写生といふことを非常に浅薄な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であつて、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。理想の作が必ず悪いといふわけではないが、普通に理想として顕れる作には、悪いのが多いといふのが事実である。理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。(中略)これに反して写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけそれだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、一寸浅薄のやうに見えても、深く味へば味はふ程変化が多く興味が深い。》(子規「病牀六尺」)

だが漱石が「写生文」において、写生文家の人事に対する態度を「大人が小供を視るの態度」と急所を押さえつつ、それを踏まえて次のように語るとき、実際に書かれた写生文の多くは斬新な発見の喜びとは遠く、陳腐を脱するためにプロット(因果関係)を極力排除した結果、一様に平板なものとなっていったことが窺われる。

《彼らは何事をも写すを憚からぬ。ただ拘泥せざるを特色とする(中略)彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく、踊ったり、跳ねたり、酣酔狼藉の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らから云うとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏った道行を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なるところはないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにも関わらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんと云うのは窮窟に世の中を見過ぎた話しである。——今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいるところをもって見ると公然と無筋を標榜せぬまでも冥々のうちにこう云う約束を遵奉していると見ても差支なかろう。》(夏目漱石「写生文」)

じっさい寒川鼠骨『写生文』(一九〇三年)、福田琴月『写生文範』(一九〇七年)などに収録された数々の作例などを見ると漱石の所感に同意するしかない。写生文が文芸ジャンルとして成り立とうとすれば、筋とは別の構成原理を体現しなければならないのだ。鼠骨や琴月の著作は写生文実作の入門書でもあるが、そこで注意されていることはほとんどただ一つ、わかりきったことは書くな、飛ばせという、現在の作文指導と同じ水準の話でしかない。

子規は絵画における写生のアナロジーで写生文を語っているが、じっさいに写生文で描かれるのは物ではなく、出来事である。それもほぼ日常の瑣末な行楽や交友の経過に限られる。「大人が小供を視るの態度」は激しい感情的起伏を呼び起こす題材にはなじまない上、大事件を描けば報道目的の実録のようになるし、何らかの劇的な出来事を回顧して観想を加えたりすれば随筆となり、感情を全く除去して事実のみを書けば調書のようなものと化す。それらさまざまな隣接領域のどれとも差異を保たなければならない以上、題材もスタイルも限定される。

しかもそこで描かれる出来事というのは美術におけるモチーフとは違い、すでに言語的な分節をこうむって半ばは固定観念化しているものなのだ(言語的な分節によって質料世界を自動的に処理し続けていなかったら電車ひとつ乗ることが出来ない)。日常意識を外した文芸作品の例としてはアラン・ロブ=グリエやクロード・シモンの小説があるが、写生文はヌーヴォーロマンのような形で主体が統合性や遠近法を失うことはないし、また世界から異化によって或るモチーフを際立たせるという詩学も「大人が小供を視るの態度」からは遠い。

「大人が小供を視るの態度」とは先にも言ったように、客観と主観、世界と「私」との間にいわば絶対矛盾的自己同一を生成させる態度であり、それはおのずとこの世界の成り立ち自体をも射程のうちに含んでしまう。写生文の、というより写生という方法のもつ重要な特質はそこにある。

いいかえれば写生には世界に対する肯定、あるいは世界という肯定性が静かに爆発的に立ち現われるポテンシャルがある。子規の興奮もそこに発しているのだろう。しかし実際に既成の美意識、規範を外そうとした結果現われたのは「頭も尾もつけぬ」「しまりがない」「漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん」作物の群れだった。

「わかりきったことは飛ばせ」というごく素朴な写生文の指導にひそんでいるのは、飛躍・断絶・衝撃の重要さへの(無自覚な)洞察である。プロットあるいはストーリーに依拠することを止めた以上、他の構成原理を内在させなければならない。話が無用に錯綜するので俳句におけるいわゆる「切れ」はここでは取り上げない。

むしろここで想起したいのは、例えば子規の「飯待つ間」とアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」との間に見られる共通性である。

「溶ける魚」はシュルレアリスム運動の渦中で行なわれた自動記述実験の数少ない成功作だが、自動記述は何ものにも妨げられない連想の自由に依るという建前があるとはいえ、合理性や審美性による価値判断から完全に切り離されているわけではない。未聞の表現領域を目指す(それは世界及び「私」の再構築とほとんど同義である)以上、間違っても「自由な連想」が日常生活レベルの愚痴を延々発し始めたりしてはならず、意味が通ってしまうことだけは周到に回避し続けなければならないという判断はつねに働く。

そうして作られたおよそ明確なイメージにもプロットにも集約されることのないテクストを延々読まされるのは多くの読者にとって端的に苦痛なはずだが、「溶ける魚」が奇跡的に成功をおさめているのは、そうした不定形な発語の全てが最後の局面でいきなり「私」に集約されるからである。意味不明な言葉の大量の流動が、そこで一気に「私」という現象を構成しているのはこれほどまでに多様な他者的なものたちであったのかという洞察に反転するのだ。ここに大きな飛躍がある。

いっぽう子規の「飯待つ間」は子規が食事の用意が整うのを待つ間、病床から見聞きできる庭の様子や、周りから聞こえてくる声などを淡々と叙しつづけるだけのテクストであり、時間の経過とともに次々に子規の耳目に届くものたち同士の間には何の必然的結びつきもない。このまま終わってしまえば、まさに漱石のいう「頭も尾もつけぬ」「しまりがない」「漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん」作物となるべきところだが、それを防いでいるのが、これもラスト一行の、切って落としたような鮮烈な断絶である。

《例の三人の子供は復我垣の外まで帰って来た。今度はごみため箱の中へ猫を入れて苦しめて喜んで居る様子だ。やがて向いの家の妻君、即ち高ちャんという子のおッかさんが出て来て「高ちャん、猫をいじめるものじャありません、いじめると夜化けて出ますよ、早く逃がしておやりなさい」と叱った。すると高ちャんという子は少し泣き声になって「猫をつかまえて来たのはあたいじャない年ちャんだよ」といいわけして居る。年ちャんという子も間が悪うて黙って居るか暫く静かになった。
 かッと畳の上に日がさした。飯が来た。》(子規「飯待つ間」)

物音を聞き続け、物体そのもの、世界そのものの如く他者性の大海へと弛緩していた知覚のみの主体が「かッと畳の上に日がさした。飯が来た」の一行で際限ない弛緩から切り分けられ、突如飯を食うべき子規個人の身体として発生する。

自動記述とは目を閉じた写生文であり、写生文とは目を開けた自動記述にほかならないとまで言えば勇み足に過ぎるだろうが、ここには期せずして両者が見出した共通の方法と自己‐世界の関係に関する洞察が埋まっているといえる。

弛緩したままであってはならないのだ。言語哲学者の前田英樹はソシュールに導かれて言語を質料世界とは全く独立した系として捉え、言語における収縮・弛緩と、質料世界における感覚の収縮・弛緩を別個に論じた上で改めて重ねあわせる手続きを踏み、その上でプルーストの有名なエピソードに触れる。

《『失われた時を求めて』において、コンブレーの過去全体は、過去一般の「本質」を凝縮し、「類似」の関係によってその「名辞」となっている。この時、過去の最も深く、最も広大な水準は、ただその水準に自足していることをやめて、コンブレーの過去全体に向けて収縮してくる。(中略)……問題は、最も深く広大な過去の水準が、それよりも低い(具体的な)過去の一水準に向けて収縮を始める時、その収縮は、なぜこれほどの強い喜びをもたらすのか、ということである。》前田英樹『言葉と在るものの声』青土社・二〇〇七年(p.118)

紅茶に浸したマドレーヌが過去の茫漠と弛緩した記憶の広がりを今ここに一気に収縮させる。そのダイナミズムは芸術と生の喜びそのものだ。しかし写生文においてはそうしたダイナミックな収縮はほとんど排除されており、弛緩したままだ。弛緩したままのもろもろをプロットとは別の次元で世界から「私」への収縮に転じて成功したのが「飯待つ間」だったといえる。
 
この本にはもう一つ(どころでは本当はないのだが)、写生文に関して示唆に富む箇所がある。言語芸術だけではなく、絵画や音楽もまた法則記号の体系によって成り立っているということを説き明かした部分である。

《絵画にもまた、それをひとつの画面とさせる色や線の潜在的体系がある。画家がこのことに気付くのは、詩や音楽の場合よりもはるかに困難である。そのために、セザンヌやマチスは、実際の制作においてそれを証明しなくてはならなかった。
 絵を描いたり眺めたりする動物は、人間のほかにはいない。それは、絵画を成り立たせる潜在的な絵画記号の体系が「法則記号」であるためである。むろん、音楽にも同じ事が言える。しかし、潜在的な芸術記号の体系は、さらに潜在的な言語(ラング)という「法則記号」によって支えられている。言葉は解するが、絵や音楽を解さない人間はいくらでもいる。が、絵や音楽を解して、言葉を解さない人間というものを、私たちは想像することができない。

印象派の登場以後、多くの絵画は〈純粋に視覚的〉であることを熱望するようになったが、そうした熱望は言語(ラング)の存在なくしては生まれてこない。(中略)絵が〈純粋に視覚的〉であるとは、知覚が持つこの有用性、行動との不可欠な連関を、絵画記号が断ち切っているということである。この切断を、あるいは切断への意志を、根底において可能にさせているものは、生命的原理と非連続な言語(ラング)の存在ではないだろうか。》(同書p.226)

これは言い換えると、絵画における写生は質料世界にあるもの同士(モチーフと画材)によって感覚上の相似を組織する営みだから了解し得るが、視覚・聴覚上の相似を現物との間に全く持たない言語による写生などというものがなぜ可能なのかといった問いは、そもそも成り立たないということである。ここで説かれているのは、絵画もまた言語の土台の上に構築されているということにほかならないからだ。

「写生」を語る子規の興奮。それは小さい自己の主観を離れて大きな肯定性そのものたる客観に直面したというだけではなく、芸術の法則記号を辿るのと同じ目で実際の質料世界を見直すという新たな分節法を知った喜びでもある。

子規は自然科学的観察の目と、絵画を見る目とを綯い交ぜにして、いわば絵を見るように現実を見始めたのだ。それは陳腐な日常世界をこの上なく清新なものに変えたに違いない。

大きな客観に直面することと、絵を見る目で現実の事物を見始めることとの間には、一見ある倒錯、矛盾がはさまっていると思われるかもしれない。しかしいくらナマの現物に直面しているつもりであっても、われわれが言語活動から逃れることは不可能であり、一瞬といえども逃れてしまえばもはやヒトではなくなる以上、この二つは同時に起こることがむしろ自然なのだろう。

写生は世界が在るという事件への肯定からしか発生しないが、言語活動を離れても存立しえない。写生文がもっぱら友人との行楽といった一見些細な出来事ばかりを描くのは、世界が在るという根源的な事件への関心を、表面上の「大事件」が見えにくくすることを嫌うからだ。

写生文は世界が在るという事件のなかの自分(たち)を描く。漱石のいう「大人が小供を視るの態度」とは、そうした世界と自分とが別々のままに有機的に安らかに統合を果たしている視座のことである。柄谷行人がこの漱石の文言をフロイトと対照し、「ユーモア」と呼んだことはよく知られていよう。

客観と主観、世界と「私」の分離したままに果たされる安らかな統合としての「写生」を、俳句においては、高濱虚子が「客観写生」へと変質させた。

想像(子規のいう「理想」)や思い込み、自己執着による陳腐化を避けさせるための「客観」の強調だったのだろうが、これによって「私」は世界との統合というダイナミズムから切り離され、世界を外部から観察するだけの静的な視座にまで縮減された。

虚子はこれに「花鳥諷詠」という、本来写生とは逆のベクトルを持つ審美的類型化をもって世界を覆うことでその肯定性を補填した。これにより世界は予め肯定的なものとされた。

それはいい。だがこの二本立てのスローガンは、世界と「私」を統合するダイナミズムを個々の作家が(ということはつまり別々の来歴を持つ別々の人格が、それぞれの方法で)形成する手間を省いてしまうことにもなった。

虚子の「ホトトギス」が俳句界を席巻し、俳壇そのものになったのはこのインスタントな世界観=制作理念の創出も一因となっているのだろう(ついでいえば東日本大震災後、「牙をむいた自然」に対し今後季語をどう扱っていけばよいのかといった困惑が俳人たちの間にあったようなのだが、季語が「花鳥諷詠」という趣味的・審美的に肯定された世界観の要を成している以上、それが現実との間に激しく巨大な齟齬を来したときに戸惑いが起こるのは当然といえばいえる)。

現在「写生」という概念は俳句作家相互の間でその指す内容があまりにも食い違うため、まずその内容を規定しないことには議論の始めようすらない状態となっているのだが、この「バベルの塔」の出来にも相応の必然性はある。

いわゆる伝統系の作家たちに多い、作品を構成する言語が、普段知覚される質料世界の指示対象とおおむね矛盾なく対応しあっている形式的リアリズムを基本にした「写生」と、竹中宏の激しく苛酷な編集作業を経た事物と言語で構築される「写生」とはおよそ似ても似つかない。

客観と主観、世界と「私」の別々のままの有機的統一を目指す表現が「写生」だとするならば、その方法は個々の作家がそれぞれの固有性を負いながら個々に組織していくのが当然なのだ。

俳句における「写生」の定義が四分五裂するのは、それぞれが目指す目標地点が同じだとしても、それぞれが必ず個別固有の迂回路を通らなければならないという「写生」という方法自体が発する要請のためである。

俳句作家は本来一人一人別の顔を持って世界と包摂しあわなければならない。俳句に季語が必要かどうかも一般論としてはほとんど意味がない。それぞれが如何なる迂回路を世界との間に形成しているかという個別の事情による。

それにしても、漱石の「写生文」は短い中に写生文の急所をあらかた押さえてしまっている。以下の一節は、客観と主観の関係を、世界と「私」の構造の問題として洞察している。

《写生文家は自己の精神の幾分を割(さ)いて人事を視(み)る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我(ひが)の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。ここにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢(いきおい)客観的でなければならぬ。》(夏目漱石「写生文」)

幸福も安らぎも、単なる「頭も尾もつけぬ」「しまりがない」「漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん」弛緩の中にあるのではない。それらは「大人」と「小児」の間に介入し、目もくらむ広大な時空を開かせながら、それによってこそ繋がる輝かしい飛躍・断絶の領域、その生成のうちにこそあるのである。


(※本エッセイは愛媛大学写生・写生文研究会の、2012年2月4日・京都研究会に合わせて書かれた)

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